ひたすら模索していた20代

――長編第1作目の『僕らの未来』は大学時代に作られたそうですが、学校の実習作品だったんでしょうか?

 いえ、1年生の授業は基礎的なことしかやらせてもらえなかったので、大学に入ってすぐ、同級生たちに声をかけ、自主映画として作りました。当時はとにかく映画を作りたくてたまらなかったので。

――完成まではスムーズに進んでいったんですか?

 それがまったく順調には進まなかったんです。まずは自己流で脚本を書き始めたんですが、出来上がったものを講師として来た荒井晴彦さんたちに「読んで意見をください」と渡したところ、もうボロカスにけなされまして(笑)。ただ言葉は厳しいけれどどれも納得できる指摘ばかりで、そこから半年くらいかけて必死で改訂をしていきました。

 ようやく撮影に入れたのは、大学2年の夏休み。撮影が終わっても、編集作業でまた何度も悩み、半年間くらい編集室にこもって作業をしていました。それでも自分では、「絶対に面白くなるはずだ」という変な自信があった。PFF(ぴあフィルムフェスティバル)の応募の締め切り期限である3月までにどうにか仕上げて応募しました。

――そうして出来上がった『僕らの未来』は、2011年のPFFで審査員特別賞を受賞します。その後、長編2作目となる『フタリノセカイ』を発表したのは2022年です。

 『僕らの未来』を撮ったときは、これですぐに商業監督としてデビューできるだろうと思ったんですが、現実は厳しくて、その後何年もチャンスに恵まれずにいました。大学卒業後は、一度地元の群馬に戻って一年間シネマテークたかさきでバイトをしたり、助監督やプロットライターの仕事をしたり、映画のメイキングの撮影をしたり、とにかくいろいろやっては模索する時期が続きました。

 そんななかでようやく撮れたのが『フタリノセカイ』。話自体は、大学を卒業してからずっと書き続けていたもので、たまたま同じ群馬出身のプロデューサーである狩野(善則)さんと知り合い、うまく走り始めました。思えばこの頃から自分のスタンスが徐々に変わっていった気がします。待っていても仕方ない、撮りたいならもっと能動的に動いてみようと思い始めたんです。

 それで次の『世界は僕らに気づかない』のときは、芸能プロダクションのレプロが主催する映画コンペティション企画「感動シネマアワード」に参加し、そこでグランプリを受賞したのを機に、映画化へと進んでいきました。

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