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ゆっくりと着実に、前に進んでいくこと

 誰より優秀な教師になってくれるのは、酪農場で働くマリー=リーズだ。トトンヌと同世代ながら、ひとりで牛の世話をし、チーズ作りに欠かせない高品質な牛乳を作る彼女は、表面的にはぶっきらぼうながら、彼を手助けし、いろんなことを教えてくれる。

 どうやって新鮮な牛乳をトラックに詰め込むのか。牛のお産とはどういうものなのか。何より、女性の体をどう扱うのかを、マリー=リーズは教えてくれる。女性が何を求めているのか、どんなふうに体に触れてほしいのか。どれも、男友達に虚勢を張り、酒の勢いで女の子をナンパしていた以前のトトンヌが知らなかったことばかりだ。いくつもの教えを得て、彼の世界はみるみるうちに広がっていく。

 トトンヌの挑戦は何度も壁にぶつかる。覚えたとおりに工程をこなしても、そのたびに失敗し全部が台無しになる。ときには自ら大きな間違いを犯してしまう。それでも彼はすべてを投げ出したりはしない。教えられたことを反芻し、もう一度初めからやり直す。何度も何度も同じことをくりかえす。その積み重ねによって、少しずつチーズらしい形が生まれてくる。

 気づけば、材料をあやつる彼の手つきは、最初の頃とすっかり変わっている。自信がつき、堂々とした手の動き。固まっていくチーズをじっと見つめる彼の顔つきも、今や悪童とは程遠い、凛々しいものになっている。

 チーズ作りだけではない。トトンヌが妹をバイクの後ろに乗せる動作や着替えをさせる様が、いつの間にかすっかりこなれていることに気づいたとき、思わずあっと喜びの声が出そうになった。

 完璧なチーズが完成するにはまだまだ時間が足りない。けれど、クレールと、マリ=ルイーズと、そして友人たちと過ごした時間はたしかに結実し、トトンヌという人間を変えていく。ゆっくりと着実に、前に進んでいくこと。その途方もない時間の流れを目撃できるこの映画を、どうしたって愛さずにいられない。

『ホーリー・カウ』

10月10日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開
監督・脚本:ルイーズ・クルヴォワジエ
配給:ALFAZBET
https://alfazbetmovie.com/holycow/

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Column

映画とわたしの「生き方」

日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまに変化していく、わたしたちの「生き方」を見つめていきます。

2025.09.30(火)
文=月永理絵