この記事の連載
日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、映画のなかで生きる人々を通じて、さまざまに変化していくわたしたちの「生き方」を見つめていきます。
今回は、4月25日から全国公開中の映画『来し方 行く末』に注目。
あらすじ
北京の大学院で脚本作りを学んだウェン・シャンは、思うように仕事を得られず、今は葬式で読まれる弔辞の代筆業をして生計を立てていた。同居人のシャオインと暮らしながら、依頼主から話を聞いては、亡くなった人たちの人生を美しい物語にまとめ上げる。その丁寧な仕事ぶりが評判を呼び、次々に仕事が舞い込むが、彼自身は今の生活に行き詰まりを感じ始めていた。リウ・ジアイン監督作品、主演は『チィファの手紙』『鵞鳥湖の夜』などで知られるフー・ゴー。
人生を「美しい物語」にまとめることはできるのか?

彼はいつも耳を澄ませている。彼の仕事は、依頼を受け、誰かの人生を文章としてまとめあげること。そのためには、たくさんの人々に取材をし、対象となる人の人生を誰よりも詳しく知らなければいけない。その人は、どんなふうに生きたのか。誰と出会い、どんな交流をした人なのか。どんな性格で、何を生業にしていたのか。とりとめなく語られる話に耳を傾け、口が重い相手にはそれとなく質問を重ね、ひたすら人の話を聞き出していくのが彼の役目だ。ただし、肝心の本人に話を聞くことはできない。なぜなら、彼が書くのは、その人の葬式で読まれる弔辞の文章だから。

遺族ではなく、プロが弔辞を代筆するのが北京では実際に流行っているのだろうか。わからないが、少なくとも映画のなかの世界では、主人公ウェンが行う弔辞の代筆業は、忙しい現代人に向けた新たなビジネスとして人気を博しているらしい。とはいえ、それは彼が本来望んだ仕事ではない。脚本家を目指していたウェンにとっては、いわば食い扶持を稼ぐための仕事のはずだった。だが気づけば脚本が書けないまま中年になり、かつての同級生はすでにドラマや映画の分野で活躍している。田舎にいる家族には、脚本家として働いていると嘘をついたまま。このままでいいのか、一念発起して脚本を書き上げる日は来るのか、同居人のシャオインにもせっつかれ、ウェンの心は迷い始める。

そんな逡巡があるせいか、映画の中のウェンはいつも不安げに見える。根源にあるのは、自分が本当に人の話を聞けているのか、という不安と自信の無さ。取材はこれで十分だったのか。何か大事なものを取りこぼしてしまったかもしれない、という不安が最後まで消えず、彼は何度も原稿を書き直す。そもそも何十年と生きた誰かの人生を、ひとつの美しい物語にまとめるなんて不可能だ。本人亡き今、すべての過去を知ることはできないし、息子から見た父の顔と、娘から見たそれとがまったく別のものであるように、視点によって見え方はがらりと変わる。たとえ本人の声が聞けたとしても、それが真実とは限らない。誰かの人生を物語るとは、なんて難しく厄介なことだろう。
2025.04.30(水)
文=月永理絵