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生活の細部に目を凝らすこと

面白いことに、ウェンはただ周囲にいた人々に話を聞くだけでなく、必ず亡くなった人がかつていた場所を訪れる。その人が暮らした場所で、その人が座ったのと同じ場所に座ってみる。生前に囲まれていた音の中に身を置き、かつて見たはずの景色を眺める。苦労して火鍋屋を立ち上げた男の弔辞を書く際には、彼が経営していた店まで行き、従業員たちの仕事ぶりを眺め、店に集まる常連客の喧騒に耳をすませる。急逝したIT企業の社長が仲間たちと働いてきたオフィスに行き、故人が愛用したフィットネスバイクを漕いでみたりもする。依頼主の中には、自分の死後の弔辞を予約している女性もいて、ウェンはたびたび彼女の家を訪ねては、今の生活そのものに目を凝らす。

弔辞を書くためにここまでする人は、ウェン以外には普通いないはずで、ただ話を聞いて原稿を書くだけではだめなのかと驚く依頼主も多い。ウェン自身、どこまで自覚的にそうしているのかはわからない。遺族や友人たちの話を聞くために訪れた場所で、ふとその場の空気に触れてみたくなった、その程度のことかもしれない。けれど、その人がいた場所に自分の身を置くことで、彼女/彼がどのような生活をしていたのかをたしかに感じ取ろうとする、ウェンの振る舞いのひとつひとつにぐっと心を掴まれた。

そしてそれは、この映画の姿勢そのものでもある。ウェン・シンとはどういう人なのかを語ろうとすると、いくつかの言葉がパッと浮かぶ。夢に破れて挫折した脚本家。中年の危機を迎えた人。都会の片隅で寂しく暮らす孤独な男。わかりやすい肩書ならいくらでも挙げられるけれど、彼という人間の本質は、そんな言葉では掴みきれない。それよりも、彼がどんな家でどんなふうに毎日を過ごしているか。食事や家事の仕方。部屋に差し込む光の変化や、自転車で移動するときの風の受け方。仕事の息抜きにいつも出かける場所や、そこで見た景色。家の外にやってくる猫との交流。そうした画面に映るすべての些細な事柄によって、ウェン・シンというひとりの人物が、私たちの前に少しずつ浮かび上がる。この映画は、その過程を何より大事にしているのが、よくわかる。
物語を書くとは、大きな出来事や個性的で面白いキャラクターを作り上げることに限らない。生活の細部、ひとつひとつに目を凝らし、耳を澄ませ、それらをたしかに描写すること。そこから物語が生まれていく。そして人生もまた、そんなふうにつくられる。
『来し方 行く末』
2025年4月25日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
配給:ミモザフィルムズ
©Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd
https://mimosafilms.com/koshikata/

Column
映画とわたしの「生き方」
日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまに変化していく、わたしたちの「生き方」を見つめていきます。
2025.04.30(水)
文=月永理絵