ひとが自分だけの「恐怖症(フォビア)」を手に入れたとき、果たして何が起こるのか? 神出鬼没の「恐怖症売り」がもたらす新たな「しあわせ」の形。冒頭を無料公開でお届けします。
「恐怖症店」(梨・著)
女は恐怖症を売り歩いていた。
夏、べたついた潮風がまとわりつく港町。ひとりの女が行商のように、或いは夜鷹のように、小さな露店を開いている。女は、その集落に於いては珍しい黒色の洋袴を穿き、寂れた裏通りの一角を陣取るように敷いた茣蓙の上に坐っていた。紅に近い橙の夕間暮れに、そこだけが影のように黒い。
道を行き交う人々は誰も、その黒い女に目を向けなかった。まるで、その姿が全く見えていないかのように。彼女は人々の様子を眺めながら、何が面白いのか、僅かに口角を上げた微笑を崩さない。西洋の喪服を思わせる、顔を覆う半透明の黒いヴェールを透かして、硝子細工のような目が覗いている。つくりもののようなその瞳も、病的なほどに白い肌も、何ら人間らしい要素を感じさせなかった。
「店主」
彼女の横で、ひとりの少年が平板な声で話しかける。彼はこの店の客ではなく、彼女の助手のような仕事をしている子供だった。入院着のように簡素で白い洋服を着た、年の頃なら十二、三歳の、やや小柄で線の細い男子である。愉しげな笑みを浮かべる黒い女とは対照的に、少年は年齢に見合わない無表情を貫いていた。
「まだ店は仕舞わないのですか」
教科書を読むのにも似た、淡泊な声の調子。彼の声に呼応するように、女は視線をちらりと少年の方へ向けた。
「今日のところは、まだだ。もう暫くこの辺りに店を構えていれば、私を必要としている人間が訪れる。陽が落ちるよりも早いだろうから、カタももう少し待っておけ」
「客と、約束でもしているのですか」
「約束などするはずがない。私がそう思っているということは、いずれ私を必要とする人間が訪れる。そういう仕組みになっているのだ」
ぬるく湿った空気に、鼻先のヴェールが揺れた。
2025.08.27(水)