タイトルの「最後から二番目」という言葉の秀逸さ
タイトルにある「最後から二番目」という言葉は、本当に秀逸です。なぜ「最後の恋」ではなく、「最後から二番目」なのか。
人生の折り返し地点を過ぎ、あるいは終盤に差し掛かっていると感じる年齢になっても、もっと先の未来でも新しい出会いや、心が動かされる出来事が待っているかもしれない。そんな「いや、まだ私いけるでしょ!」という、諦めとは無縁の前向きな心持ちが「最後から二番目」という言葉には託されています。
千明も和平も、そして他の登場人物たちも、年齢を重ねる中でさまざまな経験をし、傷つき、時には人生に倦怠感を覚えることもあります。白髪が増えたり、老眼になったり、体力の衰えを感じたりといった「あるある」な現実にも直面します。
しかし、彼らはそれをただ嘆くのではなく、むしろユーモラスに受け止め、それでもなお「まだ何か面白いことがあるんじゃないか」「まだ誰かと心を通わせることができるんじゃないか」と、心のどこかで信じているんです。

この「終わらない期待」は、若い頃に感じていた未来への無限の可能性とは少し違います。それは、人生の限りを意識し始めた大人だからこそ抱く、より切実で、味わい深い希望と言えるでしょう。
本作が描く「恋」の対象は、必ずしも異性に向けられたものというメッセージは含みません。万理子(内田有紀)が千明に抱く感情からも、それは明らかです。
むしろ恋愛感情以上の広がりすら感じられます。このドラマが描く「恋」とは、特定の人に対する感情だけでなく、自分が身を置く場所、過ごす時間、そして自分自身の人生そのものに対する肯定的な眼差しや、深い愛着をも含んでいるように思えます。
それは日常の些細なことに感動したり、新しいことに挑戦したり、誰かのために何かをしたいと思ったりするような、人生を豊かに彩るあらゆる「ときめき」や「情熱」を失いたくないという思い。
脚本家である岡田惠和さんの作品には、こうした人間の根源的なエネルギーや、生きることそのものへの賛歌が一貫して流れていますが、『最後から二番目の恋』シリーズもまた、そのテーマを色濃く反映しています。
今作のキャッチコピー「いくつになっても、未来に恋していたい。」は、まさにそれを象徴しているようです。アラカンを超えても、何かに夢中になったり、深く惹かれたりする未来はあり続ける、そんな力強いメッセージが伝わってきます。
2025.06.23(月)
文=綿貫大介