ラストに抱いた「2つの違和感」
まず一点、個人の身体的特徴であるインターセックスを、わかりやすく驚きのあるクライマックスのために利用しているように映る点だ。
修道士として幼いころから規律が厳しく世俗的な娯楽から切り離されて育ってきたベニテスは、盲腸の手術を受けるまでインターセックスである自覚がなかった。さらに、おそらく外見や性自認に関しては男性で、カトリック教会もベニテスを男性として扱い続けるだろう。その上でベニテスがインターセックスであることは最後の最後まで秘され続けるため、この映画では同様の身体的特徴を持つ人の困りごとはまるごと捨象されている。
もう一つの違和感は、ベニテスが自身の在り方を受容した論理にある。「ありのままでいい」というベニテスが採用した言説は、非キリスト教徒にも通じやすく共感を呼び、素朴な身体性に基づいたその論理は、どこか自己啓発的な響きを持つ。だが一方で、その理屈を是としてしまうと、個人の選択を結果的に否定してしまうことになりかねない。

“驚きのクライマックス”が優先されているのではないか?
実際にカトリックは、聖書の記述に基づいた教義によって同性愛者差別、トランスジェンダーの性別移行への忌避、堕胎の禁止など、さまざまな問題を抱えている。本作の大きなテーマである女性差別についても、聖書自体が「男性優位的な価値観に基づいたもの」という指摘がなされている。そのため現在は(本作で言うところのベニテスのような)進歩的な思想を持つ聖職者のもとで、古い教義をどのように解釈するかの議論もおこなわれている。
信仰や教義の在り方をいかに維持しながら現代に適応していくか、多様な信徒の在り方を肯定していくか。こうした課題が、属人的な思いや考え方では回収され得ないところに、家父長制組織や伝統宗教の難しさがあり、また盤石さもそこに由来するのだろう。しかし、本作が用意したラストは、そうした複雑な現状をあまりに単純化していたように見えた。

映画としてのクオリティと時代性がヒットを生んだ
この映画は、「伝統的な宗教観」や「教義」について議論、あるいは批判をしていたはずだった。だが、最終的に用意されたサプライズ的な結末が、カトリックもインターセックスも、この映画にとってはあくまで映画的な快楽のために用いられているに過ぎないのではないかという疑念を残す。クライマックスへの驚き、多くの観客から共感を得るための構造を優先したために、カトリックが有する本質的な欺瞞(それは現代社会に対する欺瞞とも接続する)から結局は逸れていってしまうのだ。
しかし同時に、宗教や性的少数者からはあくまで一定の距離を取って、大衆の共感を優先するこのバランス感覚こそが、大ヒットのもう一つの要因でもあるのだろう。現代における宗教の持つ意味、あるいは宗教への眼差しを可視化し、一流の娯楽作へと昇華させた『教皇選挙』。そのヒットは、映画としてのクオリティと時代性という両面から、必然であったのだ。

参考:「第97回アカデミー賞脚色賞受賞『教皇選挙』監督エドワード・ベルガーにインタビュー カトリックの総本山を舞台にした政治スリラー」(『エスクァイア日本版』2025年3月9日配信)

2025.06.06(金)
文=山田集佳