『結 妹背山婦女庭訓 波模様』(大島真寿美)
『結 妹背山婦女庭訓 波模様』(大島真寿美)

 一般の方向けの参考にはならないかもしれないが、まずは率直な感想を述べると、本作は私のような江戸時代の演劇の研究者にとっても、抜群に面白い小説である。その内容の随所に、十八世紀の浄瑠璃・歌舞伎界の史実が踏まえられているのだが、よく知られているとは言えない登場人物たちを扱っているので、研究者にとっても、時にそれが常識的ではないレベルの事柄に及ぶ。もちろんフィクションだから、虚実入り交じっているのだが、その「虚」と「実」を細かく見ていくと、著者が丹念な調査を行った上で、この小説世界を作り上げていることがよくわかる。前作の『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』同様、そのあたりを掘り下げていくだけでも楽しいのである。

 例えば、「月かさね」では、近松半二(はんじ)の娘おきみが、近松(やなぎ)の執筆の手助けをして、『三拾石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』の中の「妹背山婦女庭訓そっくりな段」を書いたということになっている(二三八頁)。

 作中に出てくるように、もともと『三()石艠始』は並木正三(なみきしょうざ)の書いた歌舞伎(一七五八年初演)であり、近世演劇研究者なら、ふつうそのことは誰でも知っている。またそれが歌舞伎の初演に近い時期(一七六三年)に浄瑠璃化されていることや、それを増補した右の『三()石艠始』(一七九二年)が存在することも、詳細はともかく、部分的には知っていてもおかしくないだろう。しかし、その増補作『三拾石艠始』の内容にまで精通している研究者は、おそらくほとんどいないに違いない。私も恥ずかしながら読んでいなかったので、「妹背山婦女庭訓そっくりな段」「ふざけた趣向の一段」などと言われると、「本当に、そういう段があるのか」と、はたと立ち止まってしまう。

 職業柄気になるので、「では確かめてみよう」ということになるのだが、この作品は活字になっておらず、丸本(江戸時代に刊行された浄瑠璃本で、一作品全体が収められたもの)で読むしかない。しかし便利な世の中になったもので、作中で入手に苦労していた『三日太平記』(二九〇頁)でも、この作品でも、現在ではインターネットで簡単に丸本の画像が見られるので、くずし字さえ読むことができれば、即座に内容が確認できる。そこで実際に読んでみると……

2024.08.29(木)
文=久堀 裕朗(大阪公立大学大学院文学研究科教授)