とりわけ、本作では、一人の登場人物の人生が一定の「実」をたどりながら描かれるのではなく、複数の人物の視点で全体の物語が展開し、『結』というタイトルが示すように、それらの人々の人生が相互に結びつく形で物語が構成されている。その点で言うと、多くの場合、こうした「実」が、複数の人物の結節点に位置づけられていることが注目される。詳細は省略するが、右に挙げた「実」についても、『三拾石艠始』は近松柳とおきみと耳鳥斎の、『花楓都模様』は菅専助と近松余七と耳鳥斎の、『もふもふよかろ丑御執達』は近松徳蔵と耳鳥斎の、『木下蔭狭間合戦』は近松余七と耳鳥斎の、それぞれ二人、三人をつなぐリンクになっていて、登場人物たちをどのように結びつけるかという部分に、著者の加えた「虚」(創意工夫)がある。そうした「実」と「虚」との絡み合いが、誠に興味深いのである。
そして、その意味で言うと、『渦』『結』を通して、個人的にもっともインパクトを受けたのは、「近松加作」=「近松半二の娘おきみ」という設定であった。
『伊賀越道中双六』の浄瑠璃本に作者として名前を連ねる近松加作は、半二晩年の弟子と推測されるが、その素性は全く知られていない。また、半二に娘がいたことは、安永九年(一七八〇)に三津寺付近の半二宅を訪れた福松藤助が日記に書き残している事実である。これらのことを利用して、両者を同一人物としたところに著者の創出した「虚」があるが、加作の正体はわからないのだから、その「虚」は単純に「嘘」とも言い切れない。著者の想像力の賜物であり、著者にとっての一つの真実とも推察されるが、こうした虚構の末に生み出された作品世界は、確かに一定のリアリティーを感じさせるものになっている。
またおきみという登場人物の存在自体が、主人公格の複数の人物を結びつけるリンクとして機能していて、この人物を生み出したことが、『結』という小説を成立させる原動力になったと見ることもできる。本作を楽しむのに、以上のような小難しい分析は全く必要ないが、こうした緻密な作品づくりが、本作を魅力的なものにしていることは間違いないだろう。
2024.08.29(木)
文=久堀 裕朗(大阪公立大学大学院文学研究科教授)