長い時間をかけて作家になった須賀敦子は、らしくない作家ともいえる。
おそらく本人はみずからの作家というあり方を、肩書きや職業としてよりは、食べ、歩き、読むことと同じく本質的な「書くこと」の延長線上のごく自然な状態として意識していた。本や文章を書く、という行いは彼女にとって生きてゆくうえで自己確認のきわめて根本的な作業であり、人生における最大の命題であり続けたのだ。そして、本を読み、本を書くことをまっとうした人生の最終章で、彼女の生涯変わることのなかった書物への愛に目をとめた世界が作家という肩書きと、好きなようにものを書くチャンスを贈ったということなのだ、おそらく。
一九二九年、兵庫県に生まれた須賀はカトリック系の教育を受け、父親の転勤に伴って東京に移り住み、戦争でふたたび関西の学校に戻り、再度東京に赴いて大学を出ると五三年にはパリに留学、翌夏、イタリア語を学ぶために訪れたペルージャで忘れがたい印象を受ける。帰国後、働き始めるもこの思いは棄てきれず、五八年にローマ留学。ミラノのコルシア書店を中心としたカトリック左派の活動に共鳴し、六〇年にはミラノに移り、書店を動かしていたペッピーノと結婚、同時に日本文学の翻訳を始める。しかし夫は六七年に急逝し、七一年に帰国。大学で教鞭をとり、イタリア文学の翻訳を手がけながら、八五年に日本オリベッティの広報誌にイタリアを舞台にしたエッセイを載せ始め、九〇年『ミラノ 霧の風景』として上梓される。
例外的に遅咲きの新人作家、須賀敦子の第一作は、あらたに書き下ろされた「遠い霧の匂い」で幕を開ける。ミラノと霧と須賀敦子のイメージを決定づける文章だが、そこには実際に街をすっぽりと覆う霧と、須賀の追憶の中に宿命的に漂う霧と、とりわけミラノで過ごした、期待や熱意や驚き、出会いや失望や別れ、憂慮や充足や拠り所のなさに彩られた日々の果てに彼女が感じた死の影を孕む、いかにも文学的な霧がある。
2024.08.27(火)
文=岡本 太郎(ライター、翻訳家)