「マリア・ボットーニの長い旅」は、人生を旅に見立てていた書き手が、自分を知らず知らずイタリアに導いた、裕福ながら常にごく自然体の女性の思いがけず数奇な人生と人物像を須賀一流の優しく皮肉なトーンで時間軸に沿って効果的に叙述した、読み応えのある一作だ。須賀の人物描写は力強い直観に根差し、痛快なほど主観的で、作品によっては当初の印象を時の経過とともに(くつがえ)すことで鮮やかな効果を生むほどくっきりと、書き手の脳裏のイメージを具現化している。そして、通常は登場人物の多くが須賀流の口調で会話することで、家族や友人同士で話している時のような、ごく親密な雰囲気が(かも)し出される。だが、このマリア・ボットーニはくっきりと個性が際立ち、彼女に注がれた筆者の眼差しが変化してゆく様も、筆者が共感を覚えるイタリア人のあり方も自然に表れている。登場人物の死とともに筆が置かれることの多い結末を主人公が生き延びているのは書き手の気持ちの表れであり、自身とイタリアとの生きたままの関係を示唆(しさ)しているのだろう。

 五十代半ばから書き始められた作品集は、自身の才能に終始懐疑的だった須賀には予想外の反響と評価に遭遇する。作品の基盤には広範な読書で培われた世界観があり、それに沿って留学や海外生活や国際結婚がまだ稀だった年代に、優れて独創的な直観の赴くまま人生の旅の意味を求めながら個人的で、大いにロマン主義的な道を歩み続けた須賀の回想は多くの読者に受け入れられた。

『コルシア書店の仲間たち』で須賀は、前作のイタリア全般についての素描と考察から、自身の存在理由をかけたカトリック左派の活動拠点をめぐる群像劇へと照準を絞り込む。読者はそれまで伝えられることのなかった六〇年代ミラノの良心の一端を担っていた企業家や中・上流階級の人々の行動を、それとはまったく異なる、ごく貧しい人間たちの生態とあわせてうかがい知ることができるが、須賀の筆が冴えるのはやはり、包括的で年代記的な記述ではなく、個々の人物に光をあてるくだりだ。

2024.08.27(火)
文=岡本 太郎(ライター、翻訳家)