須賀敦子が書こうとしたのは名文でも美文でもない、人の魂に寄り添う文章だった。もう一人の自分に、読み手ひとりひとりに語りかけるように、筆を進めた。だからしばしば、須賀の、聞いたことのある者なら思い出さずにはいられない深く、印象的な声で、自分だけに語りかけられているような心持ちになる。記憶の書棚があるとすれば、そこから一冊ずつ取り出して読み聞かせるようなかたちで、とっておきの思い出を紐解いてくれる。思い出の語りには時に(ほころ)びもあるが、須賀はさほど気にせず自分だけの言葉でかたくなな心を守りながら、大切に語り続けた――さながら小説の主人公がみずから自分探しの物語を追いかけつつ日記に書き綴るように。

 彼女自身が常に学習者の姿勢でいたせいもあるかもしれないが、そんな須賀はまた、慕われる教師でもあった。少なからず(とりわけ現在形で思考する時)概念的な迷走に陥ることもあったが、長いあいだ胸中で推敲や編纂を重ねた遠い追想の物語は、おのずと作者の品格や人間性、試行錯誤を恐れず直観を信じて独自の世界を突き進んでいった人間の魅力をそのまま浮かび上がらせることになった。そこでは冷静さと温かさを併せ持った観察者の眼差しと情熱的で独断的な主観論者の言葉が霊妙に交錯していたが、その奥深くで力強い通奏低音を奏でていたのは、このひどく特異な語り手の数多くの人間的魅力の中でももっとも人を魅了してやまない、大きな愛だった。

 これほどあからさまに様々なかたちの人間愛を、けれんみのかけらもなく表現できた作家は稀有(けう)なのではないだろうか――もちろん、そんなことはこれっぽっちも意識せずに。

精選女性随筆集 須賀敦子(文春文庫 編 22-11)

定価 1,100円(税込)
文藝春秋
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2024.08.27(火)
文=岡本 太郎(ライター、翻訳家)