続く『トリエステの坂道』では、それまで歩んできた軌跡を見つめていた目が現在から未来へとつながる道にも向けられ始める。須賀のエッセイではややとりとめなく話題が移行することがままあるが、ほのぼのと優しく軽妙で、それでいてしんみりとした味わいを持つ「電車道」は、庶民(書き手はあえて固有の共感をこめて“貧乏人”とも呼ぶ)のポートレートに秀でた手腕を見せる須賀の、どちらも母国語を忘れてしまった、市電病院に通うクロアチア人の神父と市営墓地をよちよちと歩くロシア人のおばあさん、そしてその孫娘の話である。根無し草のような、それでも飄々(ひょうひょう)と人生を営み続けている人間たちに注がれる眼差しが温かい。

「マリアの結婚」は、モノクローム時代のイタリア式喜劇(ことによると書きながら念頭においていたかもしれない)を観るような懐かしさと可笑(おか)しさと奇妙な宿命観とともに語られる洒脱な一作だが、ここでも心情的距離が近すぎない人間について物語る時の絶妙にアイロニカルでなめらかな筆さばきが(たの)しい。

 夫の家族を(おびや)かし続け、ついには夫をも奪い去った暗い過去の影や、ミラノの“あまりにも一枚岩的な文化”の重みと対比させるように、須賀はフォルガリアの山村からやって来た義弟の妻シルヴァーナとその家族を、自由や開かれた未来の息吹を感じさせる存在として描く。「重い山仕事のあとみたいに」の寡黙(かもく)で、しっかりと地面を踏みしめて生涯を送った生粋(きっすい)の山男として敬愛をこめて語られるグロブレクナー氏はその最高峰だ。いつもの如く物語は死で幕を閉じられるが、それはめずらしく晴れやかで誇らしげな死である。

 須賀は『ユルスナールの靴』で新境地に踏み出す。いわゆるエッセイの枠にとどまらず(もっともそれは『ヴェネツィアの宿』ですでに凌駕(りょうが)していたが)、心酔する作家ユルスナールの文学世界や足跡と対峙(たいじ)して、作家としての自負と執筆力を奮い立たせようとした意欲作だ。“きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ”の一行で始まる「プロローグ」では、多分にレトリカルになりつつ“靴”をめぐる連想がくり広げられる。それは世界を旅するための必需品であり、ヨーロッパそのものでもあり、方法論や手段であると同時に目標や憧憬でもあった。靴のメタファーは絶えず、自身の本来の居場所を問い続けた意識が必然的に生み出したもので、もとより一定の地に安住できる者には持ち得ない疑問であり、その意味で靴は幻想でもある。生来の“ノマッド”なら、たとえ靴を選べずとも歩いていってしまうはずだ。そして懐疑的な旅人は、行けなかった場所を、書けなかった文章を惜しむ。

2024.08.27(火)
文=岡本 太郎(ライター、翻訳家)