もう一つ、リアリティーという点で付け加えておこう。本作は(『渦』も含め)全体に情景描写が少なく、人物のセリフや心の中の言葉を中心にして物語が展開していく。言い換えると、本作の文章は、登場人物の主観的表現が多くを占め、その分、各場面における情景の細かな部分は、読者の想像に委ねられている。それによって、読者に余計な違和感を覚えさせない(リアリティーを損ねない)効果があるように思われる。
例えば、『渦』や『結』では、数々の浄瑠璃の名作が話題となって出てくるが、実はそれらの上演場面は、作中にほとんど描かれていない。研究者の立場から言うと、日頃からそこがもっとも見てみたい部分であり、タイムスリップできるなら、当時の道頓堀の竹本座などに行って、芝居小屋の内部の様子を、舞台の演出も含め、ぜひとも実見したいと思うのだが、そうした情景はこの小説には描かれていない。逆にそうした点が安易に描かれると、「ここにそんなものがあったはずはない」とか、「ここも当時の舞台の様子とは違う」とか、一々に違和感を覚える可能性があるが、そういう描写があまりないので、むしろ小説の内容を自然なものとして受け取ることができるように思われる。このような点は、程度の差こそあれ、研究者だけでなく、一般の読者にも当てはまることではないだろうか。
そして、情景描写の代わりに本作の文章中に溢れているのは、前述の通り、登場人物のセリフや心の中の言葉である。カギ括弧の内に収まりきらず、そこから溢れ出したかのように、そうした言葉が、地の文と渾然一体となったかたちで綴られている。そのようなスタイルが、浄瑠璃という題材と、ほどよく調和している。
浄瑠璃という芸能は、複数の役者の対話で物語が進行する「演劇」とは違い、一人の太夫が物語を語っていく「語り物」である。そのため、対話よりも、ある人物のまとまった語りの表現を得意としている。従って、概して登場人物の言葉は長く、時に独り言が延々と続く場面もある。また自分の思いを切々と語るクドキと呼ばれる部分が聴かせどころとなっている。『渦』や『結』の文章には、そうした浄瑠璃の特徴に相通ずるものが感じられるのである。
2024.08.29(木)
文=久堀 裕朗(大阪公立大学大学院文学研究科教授)