『台北プライベートアイ』(紀蔚然)
『台北プライベートアイ』(紀蔚然)

 台湾から、新しい名探偵の登場である。主人公の呉誠(ウーチェン)は大学で演劇学や英語を教える教師で、名の知られた劇作家でもあったが、妻に去られたこと、酒の席で人間関係をぶち壊したことなどから、自分に嫌気がさして、突然、私立探偵への転職を決意する。

 本書は『私家偵探 PRIVATE EYES』という原題で、二〇一一年八月に発表され、二〇一二年の台北国際ブックフェア小説部門大賞など数々の賞を受賞して、ロングセラーになっている。日本語版より早く、フランス、トルコ、イタリア、韓国、タイで翻訳出版が決まり、中国で簡体字版も出版されている。

 私立探偵を表すprivate eye(s)は、この小説では、主人公のめざす職業の名前だけでなく、別の意味も暗示している。呉誠は大学一年のときに突然不眠症に苦しむようになり、それ以来、ほかの人にはない特別な目、物事の表象を貫通できる「秘密の目」をもつようになったとうそぶいているからだ。

 この小説は典型的なハードボイルド(中国語では「冷硬派(ロンインパイ)」)として楽しめるのと同時に、台湾社会を鋭く観察していて、台湾人論にもなっている。

 呉誠が住まいに選んだのは、台北市街の南端に位置する、火葬場が近くて、葬儀用の紙細工の店や自動車修理工場、古いマンションが並ぶ臥龍街の横丁だ。地図を見ると、それより北の一帯は碁盤の目のように整然としているのに、臥龍街だけがぐねぐね曲がっている。南側の丘陵地帯のふもとを巡ってできた道であり、かつてはこのあたりが台北の辺縁だったに違いない。「臥龍街」という名前を聞くと、中国語のわかる読者であれば、「臥虎蔵龍(ウォフーツァンロン)」(伏せている虎と隠れた龍)という四字成語を連想するのではないだろうか。隠れた英雄、埋もれている優秀な人材を意味する言葉だ。この小説にも、いかにもやる気がなさそうでいて、だんだん能力を発揮する小胖(シャオパン)など、「臥虎蔵龍」と呼ぶべき人物たちが登場するし、自分の心のなかの闇と対峙して苦しみながら、人を助ける仕事をしたいと願う呉誠自身も、暗い淵にわだかまる龍なのかもしれない。なぜ、この一帯を舞台に選んだのか、作者に質問してみた。

2024.08.09(金)