私は台湾大学戯劇学系(演劇学部)で教えていたので、長興街の大学宿舎に住んでいた。臥龍街まで歩いてすぐだが、長興街と臥龍街はまったく違う。長興街は上品で教養の感じられる通りだ。辛亥路を過ぎればもう六張犁だが、六張犁は古い台北で、小説のなかで「死の街」と書いたとおり、葬儀関係の店が多くて、雑多な商店が並び、いろいろな人たちが住んでいる。六張犁からさらに進めば、台北のランドマーク「台北101」があり、高級な信義区になる。その中間に挟まって、新しくもなく、古くもなく、玉石混交の一帯なので、推理小説の舞台にふさわしいと思った。

 さて、この作品はもちろん中国語で書かれているのだが、かなりの量の台湾語の単語、台湾語の会話が混ざっている。ご存じない読者のために説明しておくと、台湾語(台湾では「台語」という)は、十七世紀以降、福建省南部から移住してきた人たちの話す閩南語(びんなんご)をもとにした言葉で、中国語とは発音がまったく異なる。統計によれば台湾人の約七割が台湾語を話せることになっており、子どもや若者より高齢者、北部より南部の人が多く話している。

 この小説の登場人物のなかでは、呉誠の母親がよく台湾語を話す。日本統治時代(一九四五年まで)が終わる前に高等女学校の入学試験に合格した話が出てくるから、子どもの頃は自宅では台湾語を、学校では日本語を話していた世代である。呉誠、呉誠の妹、添来、小胖も、悪態をつくときなどに少し台湾語を使う。彼らの話す台湾語にはなんともいえない暖かさがあり、その雰囲気を伝えたいと思ったので、一部を日本語訳のなかにも残し、その発音をなるべく正確にカタカナで書き記しておいた。

 また、標準語という位置づけの中国語(台湾では「国語」という)のほうも、台湾の発音は中国とは少し違う。中国北方のような鼻にかかる音や、舌を巻く音はあまり聞こえず、ねっとりと粘る感じの発音だ。たとえば、呉誠の名前の「誠」は、中国のピンインでは「cheng」の二声であり、ルビを振るとすれば、「チョン」あるいは「チャン」がふさわしいと思うが、台湾人はこの字を、「陳」と同じく、「chen」と発音する。あきらかに「チェン」と聞こえるので、呉誠の名前も「ウーチェン」というルビにしておいた。

2024.08.09(金)