『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(ブレイディ みかこ)
『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(ブレイディ みかこ)

「他者の靴を履く」ために出た旅が、「足元にブランケットを敷いて民主主義を立ち上げる」で終わった。特に足へのフェチがあるわけでもないのだが、自分がよく使って来た「地べた」という言葉を鑑みても、どうもわたしには人間が拠って立つ足元に戻って来てしまう習性があるようだ。

 さて、最後に、取りこぼした一つの問題について書いておきたい。この本を担当してくださった編集者の山本浩貴さんからの質問にまだ答えていなかったからだ。

 それは、「エンパシーを働かせる“範囲”の倫理的問題をどう考えたらよいのか」という問いだった。「誘拐事件の加害者、DV加害者はもちろん、例えばサイコキラー、性犯罪者や幼児性愛者、レイシスト、ミソジニスト……などにそもそもエンパシーを働かせてよいのだろうか」という疑問に答えてほしいというものだ。最近は「多様性の時代の落とし穴」について警鐘を鳴らす識者たちが存在し、例えばレイシストのような人々の考えを「尊重」するのは間違っているという批判もあるので、エンパシーの対象の倫理的線引きはあるのかどうかを書いたほうがいいのではないかという提案をいただいたのだった。

 これでまず思ったのは、レイシストの考えを「尊重」するのはエンパシーではないだろうということだった。他者の靴を履いてみたところで尊重する気になれない他者の考えや行為はある。エンパシーを働かせる側に、わたしはわたしであって、わたし自身を生きるというアナーキーな軸が入っていれば、ニーチェの言った「自己の喪失」は起きないので、どんな考えでも尊ぶ気にはならないだろう。そもそも、エモーショナル・エンパシー(共感)ではない、コグニティヴ・エンパシー(他者の立場に立って想像してみる)のほうは(そして本書の大部分においてわたしはこちらについて語って来た)、その人に共感・共鳴しろという目標を掲げて他者の靴を履くわけではないから、その人の立場を想像してみたら(エンパシーを働かせてみたら)よけいに嫌いになったということも十分にあり得る。

2024.08.07(水)