しかし、それでも、誰かの靴を履いてみれば、つまり、その人がどうして自分には許せない行為をしたのか、どこから問題ある発言が出ているのかを想像してみれば、今後どうすればそのような行為が増えることを防げるか、または、どうすればその人自身の考えを少しでも変えることができるかを考案するための貴重な材料になる。これを怠ってずっと同じ批判の方法を取っていても(例えば、相手が間違っていることを示すデータを延々と突き付け続けるとか)あんまり効果は期待できないということは、近年の世界で生きている人なら誰しも気づいていることではなかろうか。
さらに、コグニティヴ・エンパシーに倫理的線引きが必要となると、物書きという職業の人間はたいへん困ることになる。今後、ドストエフスキーのような作家が登場しても、もうラスコリニコフは書けないということになるし、ノンフィクションの分野でも、危険な思想や性癖を持つ人のことは深く掘り下げて書かないほうがいいから単なるうすっぺらい邪悪な人物として仕上げてくれ、みたいな要求がまかり通るようになり、それこそ深みのない作品ばかりになってしまう。
また、コグニティヴ・エンパシーを使う対象に倫理的な線を引いたほうが良いのであれば、なぜ刑事裁判では、被告人がシリアルキラーであろうと幼児虐待者であろうと、情状証人(肉親や雇用主など)が法廷で証言し、被告人の生い立ちや境遇などの詳細を話して聞かせることが行われてきたのだろう。
それは、例えば、罪を憎んで人を憎まずとか、人間には贖罪と再生の可能性があるというような宗教的・道徳的な出処もあるだろう。が、それよりも重要なことがある。
人間はよく間違うからである。
人が人を裁くというのはそもそも無茶な設定であり、しょっちゅう間違える生物が判断を下しているのだから、できるだけ他者についてよく知ってからにしましょうねということなのだ。
裁判のようにある人の人生(国によっては人の生き死にさえ)を決定するような大きな判断でなくとも、わたしたちは日常的に他者を判断しながら生活している。英語では、「judge(裁判官)」という言葉が動詞としても使われ、「Donʼt judge me(決めつけないで)」という表現などは日常的に耳にする(ティーンがよく大人に向かって言う言葉だ)が、「いい人」だの「悪い人」だの「正しい」だの「間違っている」だのと勝手に他者を判断しながらわたしたちは生きている。人間である以上、それはやめられない。人間はよく間違うくせに他者を判断したがる生き物なのである。ならば、あまり間違えないようにする努力ぐらいはすべきなのである。
2024.08.07(水)