さらに、誰にでもエンパシーを使うことが「多様性の時代の落とし穴」で、その対象を制限するため倫理的線引きをしたほうがよいのだとすれば、その考え方の基盤には、世の中がカオスになってしまうのを防ぎたいという前提があるはずだ。しかし、実のところアナキストというのは困った人たちであり、カオスを拒否しない。

『改革か革命か──人間・経済・システムをめぐる対話』(三崎和志他訳、以文社)というトーマス・セドラチェクとの対談本の中で、デヴィッド・グレーバーは、セドラチェクから「カオスはとても危険」「しばしばとても危険な状況を生み出します」と言われて、こう答えている。

 私が言いたいのは、カオスの際に脅威としてあらわれる害悪は、ある意味、下手につくられた自動システムの害悪よりも限定的だ、ということです。たとえば、どこかでアナーキーについて講義すると、「サイコパスはどうするんだ? そんなシステムでサイコパスが及ぼす危険をどうするんだ?」といった質問を受けます。私は次のように巧く答えます。「少なくともサイコパスは軍隊を率いたりはしないでしょう」と。単刀直入に言うと、個人は限られた害しか及ぼせないのです。

 自動システムとして様々な線引きがすでになされている社会よりもカオスのほうが良いとグレーバーが言う理由は、彼が民主主義(=おおよそアナキズム)を信じるからだが、それはこれからの人間に必要なものについて彼が思っていたことと密接に関係している。

 彼は、これについて従来のアナキストのイメージとはまったく違うことを言っていた。

 これからの人間にとって重要なのは「穏当さ(reasonableness)」だと言ったのである。

「reasonable」には「道理をわきまえた」「分別のある」「極端でない」などの意味がある。アナキストがもっとも言いそうになかった言葉をグレーバーは堂々と使っていた。彼はその言葉についてこう説明している。

2024.08.07(水)