作者の紀蔚然さんは基隆に生まれ、私立の名門の輔仁(フーレン)大学を卒業し、アメリカに留学後、大学の教師となり、数多くの戯曲を書いて演劇界で活躍している。主人公の呉誠の経歴はまったく同じだし、紀さんも呉誠と同じく髭を生やして、サファリハットを被って歩きまわっているから、呉誠は作者そのものではないかと思えてくる。呉誠はいったいどこまで作者本人なのか、そして、長年戯曲を執筆してきて、突然、推理小説を書くことにしたのはなぜか、質問してみた。

 呉誠は私とそっくりなんだが、もし、「呉誠はあなたなんですね?」と聞かれたら、否定するよ。呉誠はひとつの総合体なんだ。私自身からきている部分もあり、これまで読んできた欧米や日本の推理小説の探偵たちからきている部分もある。それに台湾の文化的背景を加えて、このキャラクターを創造した。

 あの頃、私はスランプに陥り、戯曲を書けなくなっていた。どうして自分の書くものはいつも怒りと幻滅に満ちているのか、変えなければダメだ、脚本のスタイルだけでなく、自分の内心を変えなければ、と思った。それで、とにかく歩き始めたんだ。六張犁を歩き、三張犁を歩き、台北全体を歩いた。歩いているうちに、推理小説の構想が浮かんできた。戯曲に書くのには向いていないことを、小説に書いてみよう。最初はそう思った。だが、書き終わってみたら、ハッとわかったんだ。実は推理小説の形で、日記を書いていたんだ。あの頃の自分の気持ちを書き、台湾社会を観察してわかったことを書いていたんだ。

 この作品を初めて読んだのは、二〇一六年ごろだったと思う。あまりにおもしろかったので、最初の部分を翻訳して、文藝春秋の荒俣勝利さんに見ていただいた。私は長年、英語の翻訳をしていて、中国語の翻訳の実績がほとんどなかったのに、話を聞いて下さったことに深く感謝している。そのときには、すでに他の出版社に決まっているという情報が入って、あきらめていたが、二年以上たってから、他社の計画は白紙に戻っていたことがわかった。この本とは不思議な縁があったという気がしている。

 本書の刊行に先だって、二〇二一年三月に台湾で続編の『私家偵探2 DV8』が出版された。呉誠は風光明媚な海辺の街の淡水(タムスイ)に住まいを移し、本書とはまた異なるタイプの犯罪に立ち向かっていく。

*本文中の『金剛般若経』の読み下し文は、『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳註 岩波文庫)から引用しました。


「訳者あとがき」より

台北プライベートアイ(文春文庫 キ 19-1)

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文藝春秋
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2024.08.09(金)