“小説より奇なり”な日々を綴る
――エッセイの中で明かされる、伊藤さんが文章を書いて世に出るまでの日常は、まさに事実は小説より奇なり。両親の離婚と祖母との同居、小論文試験でまさかの有名大学に合格してからの大学生活、ガールズバーのバイト、怪しい芸能界のスカウトや役者修業、雑誌モデル、投資ビジネスのメルマガの校正業務まで……。こんなこともやってたの! と驚かされます。
昔から言葉にはこだわっていたけれど、文章で仕事をすることを目指して生きてきたわけでもない。誰かに見て欲しくて、いろんなことをやって失敗してきた中で、たまたま自分のことを書いて、やっと見つけてもらえた感じです。
――そんな伊藤さんのエッセイの魅力は、厄介な状況に自ら飛び込んでゆくパッションと、そんな自分を「観測台」から冷静に眺めるクールさの妙にあります。キャラの濃すぎるパパとママと祖母、友人やバイトで出会った人々など、伊藤さんを取り巻く人物もいちいち強烈で引き込まれる。
私だけが変人を引き寄せているとは思えないんだけど、たぶん人の歪な部分を愛おしく感じてしまうタイプなんですね。だから一見は普通の人でも、あれこれほじくって変な部分を見つけちゃう(笑)。
――なかでも、マッチングアプリで出会った元彼のメメさんは、超がつく変人かつチャーミングな人物です。彼を見つめる伊藤さんの眼差しも濃密な愛に満ちていて、もはやエッセイというより純文学だ! と悶絶してしまいます。
私はけっこう主人公気質で、映画を撮ってるみたいな気持ちで生きているので、なんでも演出をかけてドラマチックにしたがるタイプなんです(笑)。だからメメも他人から見れば、決して特別な人ではないかもしれない。
実際、全然いい人ではない、むしろ倫理観が欠如した社会不適合者なんですけど、それでも一緒に日常を過ごして、顔を見て言葉を交わしていると、お茶目な部分が見えてくる。そういう人間の歪さに私は惹かれるんだと思います。
どれだけ辛い人生に見えたとしても、幸せだと思っていたい
――「映画を撮ってる気持ちで生きてる」という通り、伊藤さんの文章からは、人生の特別な瞬間を言葉で永遠に定着させたいという強い意志を感じます。恋愛に限らず、永遠に変わらないものはないからこそ、何もなかったことにはしたくないという執念にも近い。
女の人って蛙化現象じゃないけど、なんであんな人を好きになったんだ? みたいに考える人が多いですよね。でも、私は別れたからといって、はい終わり、はい嫌い――みたいには思えない。恋の部分は終わっても愛情がなくなるわけではないし、過去のことでも自分の中では終わってないんです。だから、実際に泣きながら書いたりもしてます(笑)。
――過去の出来事を自分の言葉でなぞってゆくことは、自分の人生に道筋をつけてゆくことでもあります。
幸福な人生のためには、自分の選択を後悔しないことが大事だと思うんです。あとがきにも書きましたが、今回の『存在の耐えられない愛おしさ』というタイトルは、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説から取ったものなんですが、その小説はニーチェの永劫回帰思想――どれだけ辛いことがあった人生でも、その中で一度でも震えるような喜びがあったなら、その人生はいい人生だといえる、みたいな考え方――を元に書かれたもので。
小説の最後には「その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった」(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫)p.395)という文章が出てくるんです。その「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」ということこそが、私が最終的に書きたいことかなって。
よく「人生は近づけば悲劇、離れたら喜劇」というけど、自分って可哀想って思ってるときの自分はおもしろくないし、嫌いなので、他人からどれだけ辛い人生に見えたとしても、幸せだと思っていたい。そこはほとんど意地です(笑)。
2024.07.13(土)
文=井口啓子
撮影=榎本麻美