まず、寮生のことを「にょご」と呼んだ。
漢字で書くと「女御」となる。
平安時代、天皇は大勢の妃を身のまわりに置き、彼女たちは「女御」と呼ばれていた。要はプリンセスのことである。
もちろん、北白川女子寮マンションはその名のとおり、男子出入り厳禁の女の園。女御といっても、いったい誰の妃なのか? と疑問が湧くところかもしれないが、実際のところ、誰もそんなことは気にしていなかった。
「にょごのみなさん、にょごのみなさん――。明日とあさってはボイラー点検のため、午前の大浴場の使用はできません。ご注意くださいますよう」
館内アナウンスで呼びかける、寮監先生のおっとりとした口調が今も耳に残っている。
建物の呼び方にも独自のセンスが光っていた。
北白川女子寮マンションは二つの建物から成り立っていた。北白川の傾斜ある地形に建っていることもあり、東西に独立した建物を一本の渡り廊下がつなぐ、という構造だった。二つの建物はほぼ同じかたちで、真ん中に中庭を置き、それを「ロ」の字にぐるりと囲む回廊型の三階建てを採用していた。中央に各部屋のドアが向いているので、どの階であっても部屋から廊下に出ると、そこから窓越しに中庭を望むことができた。
東西二つの建物には、それぞれ呼び方があった。
建物の中央に陣する中庭が、名前の由来になった。すなわち、寮の玄関がある西側の建物の中庭には、たくさんの薔薇が植えられていた。庭の中央にアーチのようなものを設置し、そこに薔薇の枝を這わせて、その周囲にも薔薇が両脇に並ぶ通路を拵え、ちょっとした薔薇園の様相を呈していた。
薔薇の手入れは、すべて寮監先生が行った。建物自体は隠しようがないほどボロであっても、内部の雰囲気が決して暗くなかったのは、一年を通じて建物のあちこちに寮監先生が緑や花の飾りつけを欠かさなかったことも大きかった。
なかでも、中庭における薔薇の咲き誇りぶりは圧巻の一言だった。
2024.07.08(月)