「多様性」は立場の弱い人の声を拾うための言葉

 最近も現実社会で、会合に女性ダンサーを招いて「多様性の重要性を問題提起しようと思った」ととんでもない釈明をした議員がいました。「多様性」という言葉が政治の世界で悪用されるなんて由々しき自体。これは「多様性」を完全に履き違えています(女性ダンサー側に問題は全く無いです)。

 『ふてほど』第1話でも、「多様性」というワードがありました。多様な価値観が認められる社会が多様性だという女性に対し、市郎がそれなら自分の意見も認められるべきで、「それが本当の多様性」だと歌い上げるシーン。極論も認められるのが本当の多様性だ、というのです。

 でもそうでしょうか。多様性とは、今まで虐げられてきた立場の弱い人たちの声をしっかりすくい上げること。その人たちの意見に耳を傾けること。それに尽きます。今まで差別してきた側の差別的な価値観も認めろ、なんて言われても筋は通りません。市郎の主張はフェミニズムやLGBTQ+に対するバックラッシュにも通じてしまうものなのです。

 そもそも現在使われる「多様性」「ダイバーシティ」「コンプライアンス」という言葉に違和感や窮屈感を覚えている人は、だいたい今までの自分が優位だった世界を覆されたくないマジョリティの面々です。多数派側が反省しなければいけない構図になるのが許せない人たちが、今の時代を生きづらいと否定するのです。もっと生きづらかった人たちの声は無視して。

 しかし、そんな市郎も令和にいることで徐々にコンプラ意識を身につけてきています。『ごめんね青春!』をはじめとする過去作でも、違った価値観をぶつけて認め合うことを描いてきたクドカン。今回も昭和と令和、それぞれ認め合おうという落とし所なのかもしれません。ただ、どっちもどっちで済ますものではなく、ダメなものはダメと言ってあげることも新しい時代のためには必要です。現代を考え、そして未知のものへの理解を深めるために私たちは歴史を学ぶのですから。

2024.03.22(金)
文=綿貫大介