『御堂関白記』の最大の特色は、記主本人の記録した日次記が残っているという点にある。道長はどのようにしてこの日の記事を書いたのか、また書き替えたり抹消したりしたのか、誤記や紙背に記した裏書も含めて、筆記の顛末がありのままにわかるのである。
また、自筆本のうち、寛弘七年暦巻上のみが、装丁が当時のままのものであるが、道長はこの褾紙の見返に、「件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり」と書き付けている。道長は自己の日記を、後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための備忘録として認識していたことがわかる。この点、記主の存生時から、記主以外の者も読むことを前提として書かれ、貴族社会の共有財産として認識されていた実資の『小右記』や行成の『権記』など一般的な古記録とは、決定的に異なる。
伝来の過程が単純明快である点、写本でさえも『小右記』や『権記』の最古の写本よりも古く、書写の過程が明らかな点も含め、『御堂関白記』は日本の古記録の中でもまったく特異な存在である。もちろん、道長の訓戒とは裏腹に、『御堂関白記』は子孫によって、摂関家最高の宝物として、厚く保護されてきた。
ご意見番の実資
次に藤原実資は、参議斉敏の子として天徳元年(九五七)に生まれ、祖父である関白実頼の養子となった。母は藤原尹文の女。道長よりも九歳、年長ということになる。円融・花山・一条と三代の天皇の蔵人頭に補されるなど、若くから有能ぶりを発揮した。忠平嫡男の実頼を祖とする小野宮流の継承者として、永祚元年(九八九)に参議、長徳元年に権中納言、長保三年(一〇〇一)に権大納言、寛弘六年(一〇〇九)に大納言と進んだ。
朝廷儀式や政務に精通し、その博学と見識は道長にも一目置かれた。治安元年(一〇二一)、ついに右大臣に上り、以後、大臣在任二十六年に及んだ。関白頼通の信任を受け、「賢人右府」と称された。永承元年(一〇四六)、九十歳で薨去した。
2023.09.13(水)