また、道長の時代には、『御堂関白記』だけでなく、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』という、道長の近辺に生きた二人を含めた三種の日記が存在した。この本では、これらを併読することで、道長の生活と感情をより立体的に再現したいと思う。

 なお、原文は三つとも、「変体漢文」と称される和風の漢文である(文法も分量も性格も伝来過程も、記主によってまったく異なるのであるが)。この本では引用はすべて、現代語訳したものを掲げることとする。原文や現物の雰囲気をどこかで味わってみることも、是非お勧めしたい。

破却すべし、と道長は書いた

 個々の貴族が日記を書く目的や動機、それに日記そのものの有り様は、実に様々であった。我々は残された記事をただ漠然と読むだけではなく、それぞれの日記の記述目的や、その性格や特徴、それぞれの日の記事の意味や背景を、常に念頭に置きながら、読み解く必要があるのである(時には、何故にこの日のこの出来事を書かなかったのかさえも)。

 そこでまず、道長の『御堂関白記』、実資の『小右記』、行成の『権記』という三つの日記の記主の生涯と日記の特徴をおさえておこう。

 まず、この本の主人公の藤原道長は、兼家の五男として康保三年(九六六)に生まれた。母は藤原中正女の時姫。父の摂政就任後に急速に昇進し、長徳元年(九九五)、兄である道隆・道兼の薨去により一条天皇の内覧(太政官から天皇に奏上したり天皇が宣下したりする文書を、あらかじめ内見する、関白に准じる職)となって政権の座に就いた。右大臣、次いで左大臣にも任じられ、内覧と一上(太政官首班)の地位を長く維持した。

 道隆嫡男の伊周を退けた後は政敵もなく、三条天皇とは確執も生じたが、女の彰子・子・威子を一条・三条・後一条天皇の中宮として「一家三后」を実現した。

 長和五年(一〇一六)には後一条天皇の摂政となった。翌寛仁元年(一〇一七)にはこれを嫡男の頼通に譲り、寛仁三年(一〇一九)に出家したが(法名行観、後に行覚)、その後も「大殿」とか「禅閤」と呼ばれて、相変わらず権力を振るい続けた。法成寺を建立し、その阿弥陀堂において万寿四年(一〇二七)、六十二歳(以下、年齢はすべて数え年による)で薨じた。

2023.09.13(水)