道長の日記である『御堂関白記』は、はじめは『入道殿御暦』『入道殿御日記』『御堂御日記』『御堂御暦』『法成寺入道左大臣記』などと称され、後に『御堂御記』という呼称が定着していた。道長は関白に就いたことはないので、これが相応しかったのであるが、江戸時代の写本に『御堂関白記』という呼称が現われ、これが流布して公刊本にも用いられたため、現在も通用している。

 道長は政権を獲得した長徳元年から日記を記し始め、寛弘元年(一〇〇四)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳四年(九九八)から治安元年(一〇二一)の間の、道長三十三歳から五十六歳までの記事である。摂関政治の全盛期を、豪放磊落な筆致と独自の文法で描いている。

 もともとは一年分を春夏を上、秋冬を下とした二巻からなる特注の具注暦(陰陽寮の暦博士が作成し、年・月・日の吉凶などを注記した暦。毎年十一月朔日に献上された)の二行分の間明きに記した暦記が三十六巻存在したと考えられるが、中世前期に摂関家が近衞家と九条家に分立した際にこれらは分割され、現在、近衞家の陽明文庫に所蔵されている自筆本は十四巻である。上下巻共に(つまり一年分)残っている年はない。ということは、二家で半年ずつ取り合ったのであろう。

 想像をたくましくすれば、近衞家は三十六巻のうちの半分、十八巻を取ったものの、四巻を近衞家から分立した鷹司家に譲った結果、現在は十四巻が残されているのであろうか。それはおそらく、自筆本が上下共に残っていない寛弘三年・長和二年・長和四年・長和五年・寛仁元年の上下いずれかの五巻のうち、四巻分であったものと考えられる(後述するが、長和三年は当初から残されていなかったものと思われる)。たぶん、自筆本を書写した江戸時代の写本である平松本が残っている長和二年を除いた四巻だったであろうか。

 平安時代後期、孫の藤原師実の時に、一年分一巻からなる古写本十六巻が書写された。自筆本の破格な漢文を普通の漢文に直そうとしたり、文字の誤りを正そうとしたりする意識が見られるが、自筆本の記載を尊重している箇所も多い(自筆本の記載を書き落としている場合もあるが)。大部分は師実の家司である平定家が書写したが、一部(合わせて三年分)は師実自身の筆(「大殿御筆」)によるものである。現在、陽明文庫に十二巻が所蔵されている。

2023.09.13(水)