これに対し、日本で平安時代中期以来、宮廷貴族の公家日記が数多く記録されているのは、『日本書紀』から始まる正史(六国史)の編纂が延喜元年(九〇一)に選上された『日本三代実録』で廃絶してしまったことに起因している。正史が絶えてしまったために、貴族たちが当時の政治の根幹である政務や儀式などの公事の式次第の遂行を確かめたくても、正史を参照することができなくなっていた。当時は政務や儀式を法令や先例どおりに行なうことが重んじられたから、正史を参照することができない以上、それに代わる先例の准拠として、日記の蓄積が求められたのである。六国史が作られていた九世紀以前の日記がほとんど残されていないことからも、それが裏付けられよう。
平安貴族が日記を記した主な目的は、政務や儀式を詳細に記録し、違例があればそれを指摘して、後世の子孫や貴族社会、場合によっては同時代の公卿連中に伝えるということであった。つまり、現代人が「日記」という言葉から思い浮かべる、「日々の内面的な思いをつづったもの」というよりは、政務や儀式の備忘録や出来事の記録に近いのである。
だから学界では、平安貴族が残した日々の記録を、たいていは「日記」と呼ばずに「古記録」とか「記録」と呼んでいる。日本の日記はまさに、個人や家の秘記ではなく、同時代や後世の貴族社会に広く共有された政治的・文化的現象だったと言えよう。
また、何故に日記を書いたかという問題とは別に、何故に日記が残ったかという問題も存在する。これは私の専門分野から離れるのであるが、何故日記が残ったのかは、先祖の日記を保存しつづけた「家」の存在と、記録=文化=権力であるという、日本文化や日本国家の根幹に通じる問題に関わっているのであろう。
それらの日記からは、平安貴族の生活と感情を活き活きと読み取ることができる。この本では、『御堂関白記』という貴重な史料を読み解くことによって、道長という日本史上でも最高度の権力を手に入れた人物が栄華を獲得し、そしてその栄華が欠けていく過程、さらにその間の生活、それに感情を再現してみたい。それによって、いわゆる公的な評伝よりも、道長やひいては平安貴族の内面にまで迫れるのではないかと考えている。
2023.09.13(水)