そればかりか、世界的に見て、ヨーロッパはもちろん、中国や朝鮮諸国にも、古い時代の日記は、ほとんど残っていない。中国では紀元前の漢簡(竹または木の札に書かれた中国漢時代の文書や記録)などに記された出張記録などは存在するものの、それ以外では、わずかな起居注(皇帝の言行の実録)や日録を除いては清朝になるまで、朝鮮でも李朝になるまで、まとまった日記は残っていないのである。
そもそも外国では、為政者が自ら日記を書くことはほとんどなかった。中国では、皇帝には史官が付いていて、起居注として動静を記録したのである。それに対して、日本では天皇以下の皇族、公卿以下の官人から武家、僧、神官、学者、文人から庶民に至るまで、日記を記録していた。そしてそれらの日記の多くが、現代にまで伝わってきた。
これらのことを知っていただければ、千年も前の平安時代の貴族たちの日記がたくさん残っている日本という国は、世界でもきわめて特殊であり、その中でも、日記を記録した記主本人の日次記の自筆本がそのまま残っている『御堂関白記』が、どう表現していいかわからないほど貴重であることがおわかりいただけよう。しかも、それは名もない人物ではなく、日本史上、おそらくは最も強力な権力を手に入れ、その後の日本の国の有り様に大きな影響を及ぼした権力者の日々の記録なのである。
平安貴族は何故、日記を書いたのか?
では、何故に道長をはじめとする貴族たちは、日記を記録していたのであろうか。それは、中国で古い時代の日記がほとんど残されていないことと関連する。中国に古い時代の日記が見られないのは、一つには、自分の動静を記録する日記よりも、漢詩や散文などの文芸が重んじられたことによる。実際、中国では「日記」という語は、日付を伴わない考証・随筆・語録・家集などを指すことが多かった。
そして、中国で日記が書かれなかった最大の理由は、正史(『史記』以下の、王朝による正式な歴史書)が連綿と作られ続けてきたことである。中国では、昔の先例を調べるには、本紀・列伝・志・表などからなる紀伝体で書かれた膨大な正史をひもとけば、だいたいのことはわかるようになっている。先ほど述べた起居注も、後世にまで残すような性格のものではなく、正史の原史料としての役割を終えれば、後は廃棄されることが多かったものと思われる。
2023.09.13(水)