このように、「発酵」には、一般の人にはかなり難しい学問的な定義が与えられているが、本書ではそのような堅苦しい表現はとりあえず脇に置いておいて、要するに「微生物、またはそれらの酵素が、人間にとって有益な物質をつくり出したり有効な手段となったりすること」を発酵と言うことにしよう。

 例えば、今ここに一本の牛乳があって、これの蓋をあけて数日間放置したとする。当然、この牛乳は空気中から侵入してきた腐敗菌によって汚染され、猛烈な悪臭が立ち、そこにはその腐敗菌の造った毒性物質が含まれることになる。これを飲めば嘔吐や下痢が引き起こされ、人間にとっては有益どころか有害となるのだから、これは「発酵」ではなく「腐敗」(「(1)有機物、特に蛋白質が細菌によって分解され、有毒な物質と悪臭ある気体を生じる変化」。『広辞苑』)である。

 ところが、牛乳に乳酸菌という細菌が入り込み、数日間経ってみるとブヨブヨと凝固して、ヨーグルトのような、また柔らかいチーズのようなものになった。これを食べてみると爽やかな酸味とうま味があって、しばらくの間そのままにしておいても腐らない。これは、乳酸菌という細菌が作用して牛乳を一種の保存食に変えたばかりか、風味の点でも栄養の点でも格段に優れたものにしたわけで、それを総合的に考えると、人にとって価値ある有益なものに変えたのだから、この場合は「発酵」である。

 あるいは大豆を例にとれば、大豆は煮てそのままにしておいたら腐敗菌の侵入で「腐敗」してしまう。しかし、これを食塩存在下で酵母や乳酸菌により「発酵」させると味噌や醬油となり、また納豆菌を繁殖させると納豆となるのである。それらのプロセスについては、後でくわしく述べよう。

 さてその発酵を利用、応用した産業といえば、大方の読者は口に入るもの──チーズや納豆、味噌、醬油といった食べるもの、またはビールやワイン、日本酒といった酒類など─を連想されるであろうが、それらの発酵嗜好食品は今日の日本の発酵産業総生産額の実は二〇%を占めるにすぎない。

2023.09.06(水)