個人があって家族があり、個人が集まって国になる

 一方で、国や世間が「圧力」をかけるような方向に再び進んだらどうなるだろうか。産めよ、増やせよと国が号令をかけた戦前・戦中の日本がしたことを思い出せばよい。

 あるいは中国。共産党政権が成立後は、たくさん産むことが奨励され、避妊や中絶が禁止された。しかし人口が増えすぎると一転、厳しい「一人っ子政策」が敷かれるようになる。そして近年では少子化が進んだことで、一人っ子政策の緩和が打ち出されたが、国が望むような出生率の上昇にはつながっていないという。国の政策に翻弄される中国の人々は、はたして幸せなのだろうか。

 日本にも女は子どもを産むもの、という刷り込みがいまだにある。そして、国のために女に子どもを産んでもらわないと、と考える人たちがいる。

 子どもがいて一人前、子どもがいると幸せな家族になる、という人もいる。家族制度の悪しき残滓である。

 個人の前に家族、個人の前に国があると発想するからこうした考えになる。

 反対である。個人があって家族があり、個人が集まって国になる。まずは個々人が、自分の生き方に責任と自信を持つことが何より大切なのだ。

 自分が選び取った人生を送っていればこそ、他人の人生を尊重することができる。

 私は子どもを作らない選択をした。後悔したことは一度もない。

 

子どものいない女性のほうが幸福度が高い現実

 子どもがいない人にはさまざまな理由がある。ゆえに「子どもがいない人」を十把一絡げに語ることはできない。私の場合は、身体的理由でも、環境的理由でもなく、自分の希望で子どもを持たなかった。

「子どもがいなくて淋しいでしょう」

 と言われても、最初からいないものに、そうした感情は湧かない。愛情を注いだものがいなくなったときの淋しさはよくわかる。愛猫を亡くしたときは、一年間、まるで影のようだと友人に言われていた。

「子どもがいたら、もっと素敵になったのに」

 と、キャスターをしていたころに、男性ディレクターによく言われたが、余計なお世話である。皆、同じ価値観でないと気が済まない人がいるのだ。

2023.09.02(土)
文=下重暁子