なぜ人は生まれてくるのだろう。

 人は自分の意志で生まれてくるのではない。親の意志はあっても、そこに私の意志が存在しないことに、私は疑問と抵抗を感じた。

 自分の意志ではないこの生に、喜びよりも不思議さを、感謝よりも不気味さを感じるようになったのだ。

深まる「なぜ私は生まれてきたのだろうか」という悩み

 戦争が終わると、軍人だった父は公職追放になり、民間の仕事は何をやってもうまくいかなかった。兄と父は折り合いが悪く、危険を察知した母が、兄を東京の祖父母のもとに預けた。傍から見たら私は、結核も治り、元気に学校に通っている子どもに映っただろう。しかし、そうした家族環境のなかで、「なぜ私は生まれてきたのだろうか」という悩みを深めていった。

 思い返せば、私は逆子で生まれた。首に幾重にもへその緒を巻きつけていて、危なかったそうだ。大袈裟かもしれないが、誕生の仕方自体が、私のペシミスティックに傾きがちな性質を予言していたようにも感じる。

 この世に生を享けたことを無条件で喜べないし、感謝できない。

 その私が、生の連鎖をつないでいいものだろうか。

「考えすぎないで、産んでしまえば大丈夫よ。案ずるより産むが易しよ」

 私の悩みに友人たちは笑ったが、私は自分が納得しないと動けない人間だ。自分の生に納得していないのに、新たな生を作ることに納得できなかった。これが私が子どもを持たなかった理由の一つである。

2023.09.02(土)
文=下重暁子