日本を代表するプロレス界のスターでありながら、プロレスというリングの外でも国会議員などとして活躍をしたアントニオ猪木さんが2022年10月1日に亡くなっておよそ半年。
アントニオ猪木さんと倍賞美津子さんと娘として生まれた猪木寛子さんが、初めてロングインタビューに応じてくれました。娘の寛子さんから見た、偉大なるアントニオ猪木、そして素顔の父・猪木寛至さんについて語ります。
“最低のお父さん”だったけど“最高のお父さん”
――昨年10月1日、元プロレスラーで国会議員も務めたアントニオ猪木さんが亡くなられました。寛子さんにとってどのような父親であったのか、まずは伺わせてください。
みんながイメージする普通のお父さんは、送り迎えをしてくれたり、公園に行って一緒に遊んでくれたり、学校で行事や劇があると来てくれたり。少し大人になって初めて好きになった男の子がいたら“お父さんは反対だ”とかいうやりとりがあるじゃないですか。
でも、一般的な親子らしい関係というのは一切ありませんでした。そもそも家にいないですし。そういうお家だったんです。
だから、ある意味では酷かったかもしれないです。でも人間としては素晴らしかった。いま振り返ると、“最低のお父さん”だったけど“最高のお父さん”でもあったなと思います。
パパは子どものために特別なことをするような人ではなかった
――七五三のころの写真がありますね。猪木さんはどこか所在なげな表情にも見えますが、このときのことは憶えていらっしゃいますか。
3歳なので何も憶えていません――。パパはシャイなので、そんなふうに見えるかもしれませんね。
私には男の子が2人いるんですけど、私なら子どもの誕生日にお休みを1週間くらいもらって一緒にいてあげようとか、そういうことを大事にしてあげたいと思うんです。
それは私にそういう経験がまったくなかったからなんです。パパは子どものために特別なことをするような人ではなかったので。
――子ども心に、もっと○○して、どうして来てくれないの、と訴えることはなかったのでしょうか。
しませんでした。
私が小さいころは新日本プロレスを立ち上げたばかりで、一番忙しいときだったこともあると思います。子どもながらにそういうものだと思っていたし、考えもしませんでした。
――お母さまから「パパのお仕事はね――」と寛子さんに言い聞かせる場面はありましたか?
いえ、特にそういうことはなかったです。私は自分の家庭のことしか知らなかったし、当たり前のこととして受け止めていました。
ママも俳優の仕事で忙しくしていたので、近くに住んでいたママのほうのおじいちゃんとおばあちゃんに面倒を見てもらうことが多かったですし。
それに、私が小さいころ、レストランなどで家族でご飯を食べていると、ファンの方からサインを求められることがよくありました。サラリーマンのファンの方がシャツを脱ぎだして、「ここ(下着)にサインしてください!」って言うんです。
そういうときでもパパは絶対に断りませんでした。常にアントニオ猪木。だから私はそういうものなんだとずっと思ってきたんです。
でも、私が高校生になったころからは誕生日に電話をくれるようになりました。なんか、恥ずかしそうに「……なにしてんだ?」みたいに。普通だったら「誕生日おめでとう」と自然に言うんでしょうけどね。
そういう場面でどう振る舞えばいいか、どう父親になればいいかわかんなかったのかもしれないですね。パパ自身、父親を4歳で、おじいちゃんも早くに亡くしていますからね。
2023.04.03(月)
文=児玉也一
写真=末永裕樹(寛子さんポートレート)