松陰の時代とは、西洋列強が海の向こうから様々な形で干渉してくる「外圧の季節」に他なりません。松陰が生まれる以前、一七九二年にロシア使節ラクスマンが根室に来航、一八〇四年に同じくロシアのレザノフが長崎に来航、一八一八年にはゴルドンの率いるイギリス船が浦賀に現れ、日本との通商を要求します。しかし幕府はなるべく海外に門戸を開かぬのが幕藩体制に波風を立たせぬための最善の道だと言う政策を堅持しようとしており、一八二五年には異国船打払令を出すに至ります。長崎に来るオランダ船以外の西洋の船とは交渉事をせず、すぐに引き取ってもらおうということです。
しかし、こうした対応で事が済むような御時世ではなかったのです。一八四〇年に勃発したアヘン戦争が潮目を決定的に変えました。外国船の来航はますます頻繁になる。そして、嘉永六年(一八五三)にペリーが浦賀にやってきます。
二百年あまり続いた徳川泰平の世、軍学が机上の空論で済んでいた時代は吹き飛んでしまいました。リアルに外国と対峙するとしたらどうしたらよいか。もしものとき、列強に勝つ術はあるのか。日本にはいかなる現実的な選択肢があり得るのか。若き軍学者、吉田松陰の知恵の絞りどころとなりました。
松陰が抱いた「尊王」「幕藩体制の否定」、そして武士だけでなく農民なども参加した、後の奇兵隊に象徴される「国民皆兵」は、実はすべて「海外からの圧倒的な軍事圧力にいかに対抗するか」という軍学者の問いから出発しているのです。
誰に忠誠を尽くすのか
「尊王攘夷」のうち、攘夷、すなわち外国勢力を打ち払うことが国防と結びついているのは、まだわかります。しかし、なぜ国防を真剣に考えると、「尊王」になるのでしょうか。
少し詳しくみていきましょう。
松陰は死の三年前に「七生説」という文章をしたためています。これは松陰にとっての尊王思想がいかにして育まれたかをよく伝えてくれます。
七生とは「七生報国」の七生です。『太平記』には、湊川の合戦に敗れた楠木正成に対して、弟の正季が「七度生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と語る有名な場面があります。二十歳の松陰は、長州から江戸に行く旅の途中、現在は湊川神社がある楠木一党の最期の地を通り、そこに建つ石碑の碑文を読んで、感激を超えるレベルの異常な心的体験をします。
2023.03.23(木)
文=片山 杜秀