〈是れよりその後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者なければ、則ち楠公の後、また楠公を生ずる者、固より計り数うべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや〉

 楠木正成が後醍醐天皇に忠節を尽くして、命を投げ出し、一族と七たび生まれ変わって天皇をお守りしようと誓った。これぞ尊王精神の精華ではないか。身を震わせて涙を流した。何かが憑依してしまった。この体験が松陰のその後に大きな導きとなり支えともまたなるのです。

 では、この楠公顕彰の石碑を湊川に建てたのは誰か。天下の副将軍、水戸黄門こと徳川光圀でした。

 徳川光圀がかの『大日本史』の編纂を尊王史観に立脚して始めた際に、中心的スタッフに任じた一人に、佐々宗淳がいます。講談の『水戸黄門漫遊記』の助さんこと佐々木助三郎のモデルですね。彼は資料収集係となって日本各地を旅しますが、あるとき、光圀の特命を受けて、楠木正成を称える碑を建立すべく、湊川に派遣されるのです。そうして出来上がった石碑の表側に光圀の筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」という銘文が彫られ、裏面には朱舜水による楠木正成を慕う文章が刻まれています。

 この朱舜水という人は、水戸学誕生のキーマンです。明末の儒学者で、滅びゆく明に身を捧げ、明に取って代わる清に最後まで抗して自ら戦闘にも加わり、ついに日本に亡命して長崎に仮寓していたのを、水戸藩に招かれ、光圀の師となりました。この朱舜水の愛弟子の一人が安積澹泊。『大日本史論賛』の執筆者で、格さんこと渥美格之進のモデルがこの人です。

 松陰はこの朱舜水の文章にも涙します。「七生説」は、この感激の質を哲学する文章になっている。時代も空間も離れていれば血縁でもない、楠木正成も朱舜水も松陰にとっては遠い昔の人だ。朱舜水に至っては外国人である。それなのに、なぜ時空を超えて共感共苦できてしまうのか。

 そこで松陰は儒学的な「理気」の概念を持ちだします。理は時空を超えた抽象概念であり、気は時空に囚われたその人その時の具体的気分と言ってよいでしょう。気はそれぞれで別物であり、ましてや時空を超えて通じるなんてはずはない。ところが松陰は楠木正成や朱舜水と気が通じてしまった。だからこそ湊川で慟哭してしまった。

2023.03.23(木)
文=片山 杜秀