『11人の考える日本人』(片山 杜秀)
『11人の考える日本人』(片山 杜秀)

吉田松陰 尊王と軍事リアリズム

 吉田松陰といえば「尊王攘夷」。明治維新の原動力となった思想家、変革者として、また松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らを生んだ教育者として、後世に大きな影響を与えた人物です。

 その人生もドラマティックです。長崎や江戸に遊学して様々な学者、論客たちと交遊し、さらに見聞を広めるために脱藩した上に、海外への密航を企てて獄に繋がれる。せっかく出獄を許されたのに、幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を調印したのに怒り、幕閣の暗殺計画を提言、安政の大獄に連なる形で取り調べを受けると、自分から進んで暗殺計画を語ってしまい、伝馬町の牢屋敷で刑死してしまう。このとき松陰二十九歳です。

 この激烈な生涯ともあいまって、松陰には純粋すぎる理想家、夢想家といったファナティックなイメージも付きまとうのですが、それは恐らく違うでしょう。松陰の根幹にあったのは、きわめてリアリスティックな「軍学」だったのですから。

 幕末の緊迫した国際情勢のなか、日本はいかにすれば生き残れるか。この難問を、あくまでも実践的に考え抜いた人──そんな「軍事的リアリスト」として吉田松陰を考えてみたいと思います。

若き軍学者の生涯

 まず、吉田松陰の生涯をざっと見てみましょう。

 文政十三年(一八三〇)、長州は萩城下に生まれた松陰は、先にも述べたように、安政六年(一八五九)には亡くなってしまいます。つまり、明治維新を迎える九年も前に、松陰はこの世を去っています。維新のために蒔いた種がこれから芽を出そうかという時に、いわば危険思想の持ち主、テロリストとして死罪となってしまっているわけです。

 松陰は微禄の武士の家に生まれましたが、幼くして叔父の養子となります。養父は吉田大助といい、長州藩の山鹿流兵学師範でした。松陰はその跡取りとして、殿様から藩士にまで軍学を講ずる者となるように育てられました。これは非常に重要です。松陰というと、儒学者あるいは広い意味での教育者としての顔が大きく取り上げられがちですけれども、彼は何よりもまず狭い意味での軍学者なのです。いざというときにどのように戦うか。その工夫をするのが幼い日からの松陰のミッションでした。松陰は何と九歳で藩校である明倫館で兵学を教え、十一歳で藩主に対して御前講義を行っています。

2023.03.23(木)
文=片山 杜秀