では、松陰が楠木正成や徳川光圀や朱舜水と共有した気とは何か。そこで理と気の問題についての松陰独自の考察になります。気の元は理である。もしも同じ理を共有する者あらば、時空を超えて気が一致することもありうる。松陰は湊川でそういう経験をしてしまった。経験は絶対である。ということは、松陰は楠木正成や朱舜水と完璧に同型の理を有したのである。だから気が時空を超えて合致した。ゆえに憑依するものがあったのだ。こういう理屈になるわけです。

 そこで「尊王」です。楠木正成は後醍醐天皇に対して、朱舜水は明の皇帝に対して忠誠を誓い続けた。後述しますが、徳川光圀が主導した水戸学も、この国を統治する万世一系の天皇に対する忠節を貫こうとした。そこなのです。天皇や皇帝とは絶対なのです。

 松陰にとって忠義を尽くすべきなのは、彼が仕える長州藩の毛利の殿様でもなければ、武家の棟梁である征夷大将軍でもありませんでした。あくまでも忠誠の対象は、最上位の天皇でなければならない。その下の途中の者は究極的にはどうでもよい。だって、楠木正成や朱舜水と一致してしまったのだから。松陰の信仰でありました。

 この忠誠のために、松陰は命を落とします。朝廷の許しを得ずに外国との条約を結んでしまうことは、天皇を軽んじ、ないがしろにすることにほかなりません。松陰は条約の是非ではなく、のちの言葉で言えば、天皇大権を侵犯した幕府に激高し、幕府の要人の暗殺を同志に呼びかけ、毛利の殿様には幕府を武力で討伐すべきだと建言しました。取り調べを受けて、テロ計画をしゃべってしまうのも、松陰にとっては正しいことをしているので、誰に憚ることもない、死んでも悔いはない。そう考えていたからでしょう。

 この儒学的な究極的なものへの純粋な忠誠心が、いわば松陰の尊王思想のオモテの面です。では、ウラ面とは何か。それは、天皇は国防の役に立つ、という軍事的リアリズムなのです。

 この松陰の尊王思想に大きな影響を与えたのが水戸学でした。


「吉田松陰 尊王と軍事リアリズム」より

2023.03.23(木)
文=片山 杜秀