コウサンが。

旦那 コウサン? うーん、コウサンか……。

 うん。

旦那 コウサンって何?

 うーん、わかんないんだ。

旦那 わかんないんだ。

 何だっけ?

旦那 「何だっけ」って、初めて言ったね。すごいじゃない! 「お母さん」と「わかんない」のほかに、「大丈夫だよ」とか「何だっけ」とか言えるようになってきたね。

 うん。でも、お母さんがお母さんはわかんないでしょ。

旦那 うーん。何だろう?

 わかんないからさー。そのー、コウサンは、コウサンは、うんとー、わかんないからねえ。

旦那 コウサンって何?

 ええと、お母さんはわからないからお母さんわかんないもんね。

旦那 何を言ってるのか全然わからない(笑)。

 わかんないでしょ。

 こんなに全然しゃべれなかったんですねえ。「コウサン」はたぶん、学校の先生と言いたかったんでしょう。

 

わからないことばかりの中、覚えていたこと

 私がいた集中治療室(ICU)は小学校のクラス2つ分くらいの大きさで、多くのベッドが並んでいました。天井はやや高めですが、ベッドのひとつひとつに、人工呼吸器やら、点滴やら、血圧や酸素の量や脈拍を測定する機械やら、尿を導引する器具やらがたくさん置かれていて、どの機械も24時間動いています。

 ICUで寝ている患者たちは、当たり前ですが、私も含めて元気がない(笑)。みんなボーッとしています。面会の時だけはカーテンを閉めますが、ふだんは開けっぱなし。プライバシーどころではありません。

 朝の歯磨きが終わると(右手がうまく動かせないので左手でやりました)、もう私にはすることがありません。歯磨きだけが一日の楽しみです。声は出せますが、お腹も減らないし、トイレにも行きません。ベッドの上には点滴の袋が吊り下げられていて、栄養や水分はそこから摂っているのでしょう。視界がぶれて物は二重に見えます。結局、身体を休めるためにボーッとしてるしかないんですね。ひたすら寝て過ごしました。

 ある時、ふと黄色と黒のヘアブラシが目に留まりました。

「これには見覚えがある。私のだ!」

 左脳を大きく損傷した私は、かなりのことがわからなくなっていました。自分が自分であることはわかる。でも自分の名前も、数字も、時計も、言葉も、常識もわからない。少し前まではふたりの子どもを育てながら、大量の原稿を書いていた私が、ほとんど赤ちゃんのような状態になっていました。

 でも、面会にきてくれた旦那の顔は覚えていたし(目は4つに見えましたが)、ヘアブラシが自分のものであることもわかりました。私の中には、過去の記憶が残されているということです。自分を見つけたようで、ちょっと感動しました。

2023.03.14(火)
文=清水ちなみ