この記事の連載
テレビマンって呼ばないで#1 小山テリハ
テレビマンって呼ばないで#2 工藤里紗
テレビマンって呼ばないで#3 北口富紀子
テレビマンって呼ばないで#4 松本京子
テレビマンって呼ばないで#5 青野華生子
テレビマンって呼ばないで#6 二木佑香
テレビマンって呼ばないで#7 本間かなみ
テレビマンって呼ばないで#8 祖父江里奈
テレビマンって呼ばないで#9 岡部知穂 前篇
テレビマンって呼ばないで#10 岡部知穂 後篇
テレビマンって呼ばないで#11 津田 環 前篇
テレビマンって呼ばないで#12 津田 環 後篇
テレビマンって呼ばないで#13 片岡明日香 前篇
テレビマンって呼ばないで#14 片岡明日香 後篇
テレビマンって呼ばないで#15 前川瞳美 前篇
テレビマンって呼ばないで#16 前川瞳美 後篇
テレビマンって呼ばないで#17 児玉裕佳 前篇
テレビマンって呼ばないで#18 児玉裕佳 後篇

配信プラットフォームが活況を呈し、テレビの観られ方が大幅に変わりつつある今、番組のつくり方にもこれまでとは違う潮流が勃興しています。その変化の中で女性ディレクター/プロデューサーは、どのような矜持を持って自分が面白いと思うものを生み出しているのか。その仕事論やテレビ愛を聞く連載です。
今回登場いただくのは、朝日放送テレビ(以下ABCテレビ)ディレクター・プロデューサーの児玉裕佳さん。視覚障害を持つピン芸人・濱田祐太郎さんの冠番組『濱田祐太郎のブラリモウドク』などの番組を手掛ける児玉さんに、アイデアの源や、革新的な企画が生まれる土壌について伺いました。(前後篇の前篇/後篇を読む)
制作部への異動後、すぐにM-1の現場へ
――最初に入社の経緯から聞かせてください。もともとテレビがお好きだったのでしょうか。
生まれも育ちも大阪なんですが、お笑いもテレビもそこそこ好きな、どこにでもいる大阪の子どもだったと思います。仕事として興味を持ったのは、骨折して1カ月半入院していた中学1年生のときです。本当に暇で仕方なくて、テレビをずっと観てたんですよ。当時人気だった『めちゃ×2イケてるッ!』とか『クイズ!ヘキサゴンII』『はねるのトびら』(すべてフジテレビ)とかを観ていて、することもないからエンドロールまで凝視してました。
そこで「そうか、これは“プロデューサー”とか“ディレクター”って人たちが作ってるんや」と気づいて。「もし自分がテレビ局に入ったら、こういう番組を作れんのかな」と思ったのはきっかけのひとつだったと思います。
――就活ではキー局も受けたんですか?
受けたんですけど、準備不足もいいところで……。日テレは書類が通って、一次面接に行ったんです。自分なりに頑張って「ドキュメンタリーが作りたいです」とか一生懸命しゃべったんですけど、「いちばん好きだった番組は?」って聞かれたときに「『ヘキサゴン』です」って言ってしまって。
――ドキュメンタリーでもないし、日テレでもない(笑)。
面接官だった日テレの人がほんまに苦笑いしてました(笑)。結局キー局は全部落ちて、大阪の準キー局もABCテレビしか受からなかったですね。
――入社されてからずっとバラエティの制作畑ですか?
いえ、初期配属は営業局営業部、要はCMを売る部署でした。5年目の秋に異動して、それからずっと制作部です。1年目で制作に配属されると、最初は『探偵!ナイトスクープ』や『相席食堂』をやっている「ナイトinナイト」という歴史ある枠のADからスタートするんですね。そこで経験を積んで、2年目ぐらいでディレクターとして一本立ちするんですけど、私はその年次で異動になったので、いきなりAD半分ディレクター半分で始まりました。
――それはかなり大変なのでは。
「素材」という言葉もわからず、編集機材の使い方もわからないところからだったので、ADとしての基礎を後輩に聞いてましたね。1年目から制作配属の人が1~2年かけて身につけることを3カ月ぐらいで理解しないといけなくて、その時期はたしかにちょっと苦労しました。最初に『なるみ・岡村の過ぎるTV』に配属されて、秋異動だったのですぐ『M‐1グランプリ』の現場にも参加することになりました。
2025.09.14(日)
文=斎藤 岬