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なぜ彼女の声に誰も耳を傾けなかったのか?

 パルー監督がこの撮影風景を自分の映画のなかで描いたのは、決して『ラストタンゴ・イン・パリ』の問題の場面を再現するためではない。撮影中、マリアがどのような視線のもとに置かれていたかを、私たち観客に身をもって体感させるためだ。マリアが見つめていたもの、それは、わけがわからぬまま行われる性暴力であり、冷たい視線だ。

 監督も、スタッフも、みな真面目で静かな顔つきをしている。彼らはただ、自分たちが信じる「芸術」を作るため、仕事に奉仕しているだけなのだ。だがそれこそが、マリアの心に大きなトラウマを与えたのだと、私たちにはわかる。

 自分が本気で助けを求めている最中、あんなにも冷ややかで感情の消えた視線を浴びるのはいったいどんな気持ちだっただろう。それはただ絶望でしかなかったはずだ。

 『タンゴの後で』は、撮影後のマリアを襲った出来事を淡々と描く。無遠慮で攻撃的な取材の数々。周囲から浴びせられる侮蔑的な視線。そうしたすべてに、マリアは抗議の声をあげ続けた。あんなことが許されるはずがないと、怒りを表し続けた。

 けれど彼女の声は誰にも届かなかった。その残酷な現実を知るとともに、私たちはひとつの疑問に駆られるはずだ。もし自分があの時あの場にいたら、彼女の声に耳を傾けただろうか?

 この映画は、『ラストタンゴ・イン・パリ』という作品を今後見るべきか否か、その答えを出そうというのではない。卑劣な手段でマリアを苦しめたベルナルド・ベルトルッチやマーロン・ブランドを恐るべきモンスターとして断罪するのでもない。そうではなくて、なぜ彼女の声に誰も耳を傾けなかったのか、なぜ彼女があれほど苦しみ孤独に陥ったのか、その答えを、彼女が見つめた景色と彼女に向けられたいくつもの視線を通して理解しようとする。

 マリアはじっと画面を見つめ続ける。そのまっすぐな瞳が訴える問いかけに、私たち自身が答えを見つけなければいけない。

『タンゴの後で』

2025年9月5日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほかにて全国公開
監督・脚本:ジェシカ・パルー
配給:トランスフォーマー
https://transformer.co.jp/m/afterthetango/

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Column

映画とわたしの「生き方」

日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまに変化していく、わたしたちの「生き方」を見つめていきます。

2025.08.30(土)
文=月永理絵