シティサイクルから降りてスタンドを立てる。数分離れる程度ならロックをかける必要も感じない。ロードバイクとは、何もかもが違うのだ。
「すいません、ウーバーです」
自動ドアを抜け、声を張り上げる。レジに立っていた店員が「はい」と応じて、キッチンの方を一瞥する。「番号お願いします」有馬はスマートフォンの画面を見せた。「確認します」奥へ引っ込む店員の腰に巻かれた黒いエプロンのひらめきを眺めながら、有馬は慣れちまったなと考える。
客だと勘違いされないように、入ってすぐ発声すること。やり取りを最小限にするため階段を上っている最中にスマートフォンの画面の準備をしておくこと。店員が離れたタイミングでバッグを下ろし、ジッパーを開けておくこと。そもそも、ここのさつき庵はちゃんとピックアップできる段階になってからリクエストを出すからと、すぐに向かったこと。何もかもが身についている。何のためにもならないことを、と有馬は思ってしまう。思ってしまうと、思ってしまう。
店員が戻ってきた。シールで封のされたビニール袋を笑顔で受け取り、バッグへ入れながら「ありがとうございます」を言う。ジッパーを閉めたら、すぐ店外へ出る。階段を下りつつピックできたことを報告した。ついでに地図のアプリケーションを開いて届け先の場所もチェックする。その頃には、さっき感じた料理の温度と匂いは有馬の身体から離れている。もとより、自分の所有物ではない。ヴィレッジ大森五〇一号室の住人のものだ。
自転車を発進させる。商店街を抜けて都道11号へ出たところ、ブックオフの前で信号が変わるのを待っていると、タカハシさんが駅の方から走ってくるのが見えた。どこかの店のリクエストを受けることに成功したらしい。すれ違う瞬間に会釈する。タカハシさんは手を上げて返してくれた。緑に塗装された車体が滑るように道の果てへ消えていく。
信号が青になった。
すぐに都道11号が呑川という細い川を跨ぐ。雨が降った翌日にこの川から立ち昇る臭いを嗅ぐ瞬間、有馬はいつも何かの区切りを感じる。この線を越えたら、もう蒲田ではないという感覚があった。ここから、目に映る色彩に刺々しさがなくなって建物の高さも一段階低くなるのだ。橋を越えて最初の信号で折れ、大森へ向けて東邦医大通りを走り出してからは、その気持ちは更に強くなる。呑川の臭いと共に、蒲田の景色を置き去りにしていく。
2025.06.24(火)