有馬が「その」と小さく言うと、男は「どうぞ」と掌を向かいの席へひらめかせた。

「失礼します」

 一礼をして腰を下ろす。ソファは柔らかく、有馬の体を程よく沈ませてくれた。肘掛けを使う勇気は持てず、膝の上に手をのせる。

「愛李くん、今日はよろしく」

「よろしくお願いします。ジン、さん」

 愛李と呼ばれるのは久々だと思いながら、有馬はジンの表情へ視線を走らせる。照れのようなものが一切、見受けられなかった。アイリという男の名前らしくない響きに愛の字を重ねるセンスは源氏名特有のもので、普通の人は自然に発声できないはずだ。とはいえ、ジンと名乗り、その名前でホテルのラウンジの予約までしてしまう人なのだから、そうした慣れがあるのは当たり前か。

 年齢を推測する。有馬より年上なのは確かそうだが、それ以上は分からない。マンバンヘアに顎髭、すれた業界人の雰囲気はある。ふと見ると、目まで青かった。カラーコンタクトだろうか。

 ジンがテーブルを人差し指で叩いた。

「どうぞ」

 ドリンクメニューが開かれていた。値段は書かれていない。ページの上部に〈苺のアフタヌーンティー〉と記載がある。「アフタヌーンティー」と有馬が呟くように問うと「イエス」と返ってくる。有馬はラウンジを見渡した。ジンの後ろの席に座っている、恐らくはカップルの男女二人組のテーブルの上に、三段のケーキスタンドが置かれているのが見えた。

「来るんですか、あれ」

「春の苺づくし。きっと美味しいよ。監修してるパティシエの店へ行ったことがあるんだ」

「はあ」

 有馬は、ドリンクメニューへ視線を落とす。季節のフレーバーティーと紅茶について幾つもの種類が案内されているが、じっくり味わえる気分ではない。

「ブレンドコーヒーにしますが、ジンさんはどうされますか」

「ありがとう。もう決まっている」

 ジンが手を挙げると、間を置かずにスタッフが近づいてきた。「ブレンドコーヒーと、レモンミントのハーブティーを」「かしこまりました」淀みなく、やり取りが交わされ、やがてワゴンでケーキスタンドとコーヒーとハーブティーが運ばれてくる。

2025.06.24(火)