病的なまでの潔癖症であるミーナと、数学的規則の奴隷ともいうべきヴィンセントが、どんな経験をくぐり抜け、何を見いだすのか、二人の関係は一体どうなるのかが、本書の最大の見どころでもある。冒頭から何度も言及しているが、そこに大きなどんでん返しも用意されているのだが、それについてはもう触れない。各自で確認されたい。

 なお、大胆なことをいうようだが、本書から先に読んで、『魔術師の匣』に戻り、『罪人たちの暗号』を読むのも一興だろう。今回、本書の解説を書くために、その順序で再読したら、ミーナやヴィンセントの私生活のみならず特捜班の刑事たちの人間模様なども実にクリアになって、そうか、転機はここか、それでああなったのかと家族・特捜班のアルバムをひもとくような楽しさを覚えた。それほどメイン・ストーリーの事件のみならずサイド・ストーリーも豊かで、本筋に織り込まれているからだし、本書の結末の伏線を確認すれば、ある人物が抱えている哀しみの深さと絶望感がいっそう胸に響くだろう。ラストシーンには心が痛くなる。

 なお、これも北上氏のいう寄り道のひとつだが、同時代のミステリの魅力を作家名をあげて具体的に述べたり(『魔術師の匣』下巻六三頁)、『ダ・ヴィンチ・コード』の小説と映画についてうんちくを述べたり(本書一四一~一四六頁)といった脱線もいたるところにあるのでなかなか愉しい。愉しいというより嬉しいのは、日本の話が時々出てくることだ。これは北欧ミステリを読んでいると気付くことで、とくにジョー・ネスボは日本びいみたいで、彼の小説にはカローラがしょっちゅう出てくるし、『ヘッドハンターズ』には水子地蔵が出てくるし(!)、最新作『失墜の王国』にはニイガタ一〇〇〇という高級理容師鋏が出てきた。本書のミーナ&ヴィンセント三部作もそうで、『魔術師の匣』にはハチ公の映画の話(下巻二二五頁)、本書ではいきなり最初の頁に“神戸ビーフ”が出てきて、三島由紀夫(二一二頁)、日本人のお辞儀(三三九頁)と続いて、極め付きは“特別な機会のためにとっておいた、日本の〈厚岸シングルモルトピーテッド〉”(五三六頁)である。詳しくは本文を読まれたい。

 ともかく、さまざまな愉しみと嬉しさと驚きのつまった三部作である。ぜひ読まれることをお薦めする。

奇術師の幻影(文春文庫 レ 6-5)

定価 1,650円(税込)
文藝春秋
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2025.04.22(火)
文=池上冬樹(文芸評論家)