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浅野 そりゃ思うんじゃない? 真っ赤なスカジャンなんか着て小学校に行くと、「ママ、やめてよ!」なんて言ってたから。私はといえば、意に介さず、「これがカッコいいんだよ!」とか反論してたけどね(笑)。

近田 強気だねえ。

浅野 でも、若い先生は、興味津々で息子に尋ねるんだって。「お母さんは、あのお洋服をどこで買ってるの? 家に帰ったら聞いてきて」って(笑)。

近田 さすがは横浜というべきか、センスを理解する先生がいたもんだね。

浅野 そうだったのよ。ちょっとうれしかったわよ。

子育てとナイトライフを両立

近田 子どもが出来てからは、夜遊びの方は控えてたの?

浅野 いや、まだまだ遊びたい盛りだから、息子たちを寝かしつけてから、六本木や赤坂まで出張ってたわよ。「ビブロス」「ムゲン」なんかに通ってさ。

近田 その2軒は、赤坂田町通りの同じビルに入ってたよね。今、あの通りは、エスプラナード赤坂通りって呼ぶらしいけど。

浅野 あの頃、70年代半ばは、ちょうどサーファーっぽいファッションが流行っててさ。ディスコでは、ドゥービー・ブラザーズやイーグルスなんかのウェストコーストのロックがよくかかってたのを覚えてる。

近田 子育てとナイトライフを見事に両立させてたのね。

浅野 長男が小学校低学年、次男が幼稚園の頃、堀ノ内のアパートから南区の別所というところの一軒家に引っ越した。そんな時、ちょっと心身の不調に見舞われたの。

近田 どんな症状だったの?

浅野 突然、手足がビリビリしびれて、呼吸もできなくなっちゃう。自律神経がおかしくなってたのかな。2、3回救急車を呼んだわよ。

近田 それは大変だったね。

浅野 子どもたちは、救急車に乗れたことがうれしくって、窓から周囲に手を振っちゃったりしてたんだけどさ。こっちはそれどころじゃないわよ(笑)。

近田 しかし、何が原因だったんだろう。

浅野 まあ、子どもが小さい時分って、毎日いろいろとあるじゃん。子どもに関して手を抜くわけにはいかないし、他にもしなきゃいけないことがある。でも、手は2本しかない、足も2本しかない。それで、頭がいっぱいになっちゃうんだよね。

近田 とにかくそこで、一つ危機を乗り越えたわけだ。じゃあ、次回はいよいよ、忠信君の俳優デビューについてうかがいます。

〈次回「『忠信は子どもの頃から不思議と…』国際派俳優、浅野忠信の母・順子さん(74)が明かす“スターの片鱗”とユニークすぎる『英才教育』」に続く〉

浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

次の話を読む「忠信は子どもの頃から不思議と…」国際派俳優、浅野忠信の母・順子さん(74)が明かす“スターの片鱗”とユニークすぎる「英才教育」

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2025.03.16(日)
文=下井草 秀
撮影=佐藤亘