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敵対する国の青年たちは何を話す?
映画には、村の破壊と、村人たちが迫害され追放される様がまざまざと映される。そしてその合間に、バーセルとユヴァルという同い年の青年たちが、車内や家で話をする様がたびたび映る。緊迫感を持った記録映像に息をのみながら、何度も挿入される会話場面を見るうち、そこから浮かび上がる2人の関係性にハッとさせられた。
そこで交わされる会話は、当然、村の今後のことであり、この事態をどう世界に発信していくかという、ジャーナリストとしての仕事について。それがやがて、自分たちの将来やこれまでの人生をめぐる話へと発展していく。けれど、会話が親密さを増すほど、2人の間にある明確な違いがいやでも見えてくる。激しい抵抗運動が一段落すると、ユヴァルは自家用車に乗って安全な家に帰ることができる。しかしバーセルが彼の家を訪ねることはできない。パレスチナ人には、生活をする上で厳しい制限が課せられ、自由に移動することすら許されていないからだ。
同じように抵抗運動を行なっていても、バーセルには、家族を含めて、つねに警察に捕らえられる危険がある。大学を出てもまともな職につくこともできない。興奮気味に未来への希望を話すユヴァルの前で、自分には将来の展望などないと暗い声で語るバーセルの表情が胸を締め付ける。
私にとって、とりわけユヴァル・アブラハーム氏の存在は、複雑な共感を呼び起こした。共に闘う仲間より、自分が明らかに有利な立場にあると自覚させられること。同胞たちが不正義を行う様を目の当たりにすることに、彼はどんな思いを抱えているのだろう。それは、報道に心を痛めていながら、日本で平然と日常生活を送る自分自身にも、決して遠い話ではないように思えた。
2025.01.31(金)
文=月永理絵