そして先述した「読解を誘発するさまざまなフックがちりばめられている」という点も、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を彷彿させる。異なるリテラシーを備えた読者は、異なる読解を行なう。私はストリートアートに一定のリテラシーがあり、本稿をかいているが、小説や文学により造詣が深ければ、また別の読解をするかもしれない。読解の複数性をあらかじめ織り込んでおく作法はバンクシー的であり、大きな物語やイデオロギーが解体され、SNSでは無数の価値観やリテラシーが飛び交い、正誤の判別がむずかしい情報が氾濫する現代社会の実相ともそれは響きあっている。

三 ブラックロータス

 ブラックロータスは、令和の日本という文脈においてバンクシーの振る舞いをアップデートした存在である。システムに体当たりで抵抗するのではなく、それに擬態してシステムのうちに入り込み、撹乱すること。律儀にキャプションを添えることで、美術館に展示された自作がゲリラ設置だと気づかれにくくする。あえてみずからポートレイトを撮影することで、顔にモザイク処理をして素性を明かし切らないようにする。こうしたバンクシーの手つきは、アニメのラッピングカーに擬態することで、ボムした小田急線が走行するよう導いたブラックロータスの巧妙さに受け継がれている。

 ただ、そこには見過ごせない違いがある。ブラックロータスは、小田急線に貼ったステッカーを最後にみずからの手できれいに剥がし、のちにTEELにこう告げる。

 …スプレーで落書きってだけで、俺らの世代のほとんどはドン引きなのに。普通に生きている人の真っ当さを踏みにじるノリはもう流行らない。もっと、グラフィティっていうのは、同時代的にかっこいいものなはず。それを見た、善男善女の若者が、自分も行動しなきゃと思うようなものでなければならないと思うんです。

 真っ当できちんとすることこそ、かっこいい――。これはバンクシーに限らず、反社会的でアンダーグラウンドなことが本物だというストリートアートのこれまでの姿勢とは対極をなす、令和の日本の若者に特有の視座である。しかしブラックロータスは、けっしてストリートアートを薄めてまがいものにするわけではない。そこには文化の多面性や複雑さをしっかりと見据えつつ、そのコアにある思想を損なわずに、新しい時代の感性によって作り変えていく態度がある。また、それゆえの葛藤もある。

2024.10.04(金)
文=大山エンリコイサム