グラフィティを消したいだけなら清掃員になればいいし、皆に自分の作品を見せたいならリーガルなアーティストになればいいじゃないですか。思いや感情を即座に世界へ伝える。グラフィティの、そこの牙(きば)を抜いてはいけない。自分たちの居場所を守る理屈と倫理を持った上で、領土を拡大するんです。
…欺瞞(ぎまん)なんですけどね。不法侵入されたってだけで、何か他にやられてないか点検で大騒ぎでしょうし、それで小田急の誰かが責任とらされたりするかもしれませんし
新しい時代の感性を掲げつつ、牙を抜かないこと。違法性やヴァンダリズムといったわかりやすい本物らしさの「記号」に惑わされない、さらに透徹したストリートアートへの眼差しがそこにある。「タグやスローアップを消すのだって、街の空気を知っていないとできない」というセリフが仄めかすように、ブラックロータスがもっとも重視するストリートアートの「才能」は都市への嗅覚である。路上の空気を、肌で呼吸する感性。それが根底にある限り、表面が変わっても、それはストリートのアートである。その点においてこそ、敵対するブラックロータスとTEELはまた、世代の価値観のずれを超えて共振することもできた。その意味でブラックロータスは、バンクシー的なものとTEEL的なものが混在した存在である。
四 TEEL
『イッツ・ダ・ボム』の登場人物のうち、TEELはもっとも古典的なストリートのライターである。社会や時代の流れに合わせるマーケティングや、システムを分析してそこに擬態するストラテジー、そして複数のリテラシーや文脈をまとめ上げる編集スキルとは無縁のまま、「かきたいから、かくだけ」というシンプルなスタンスで、二〇年ほどの歳月をストリートの活動に費やしてきた。息を吐くようにボムをするTEELは、まさに路上の空気を肌で呼吸する感性そのものである。そのため、彼の視点によりそって進行する『イッツ・ダ・ボム』の第二部には、都市に相対するこのライターの詩的な言葉が多く綴られる。
ボムをするとなれば見える世界が変わる。世界の全てが自分の延長線上になる。あんな服を着たいと考えるように街の中に色を塗りたいところが見えてくるし、伸びすぎた髪や爪を切らなければと感じるように、以前書いて消されたタグやスローアップを書き直さなければと使命感に駆られる。
感性とタイミングが噛み合う、世界の空隙のような場所が確かにあって、それを見つけた瞬間に腕が勝手に走る。
どこにボムをしたかは、脳ではなく体に刻まれている。タグが、スローアップが、消されていることに気づくごとに、その刻印が肉体からこそぎ落とされていくようだった。
このTEELの感性は、都市をつぶさに観察したことや、無目的にまち歩きをしたことがある人なら身に覚えがあるだろう、ある種の官能性かもしれない。だがTEELは、やはりライターである。都市を観察し、吸い込むだけでなく、一体化し、みずからを溶け込ませる。それは、ただの官能性ではない。より根源的な、個人のアイデンティティと帰属する場をめぐる切実な実存の感覚である。
スケートボードに乗ってみたことは、TEELにとって、このカルチャーの存在を認知した瞬間を超えるショック体験だった。まるで、世界を切り開いているような気分になれた…生きることは世界との対決で、その勝負に勝ってこそ生きていくために必要な居場所を獲得することができる…
グラフィティというカルチャーは、TEELにとっては衝撃というよりも、馴染んだという感じだった。居場所を自らの手で切り開く感覚を、スケートボードよりももっと直接的に感じられた。
TEELは、戦略やリテラシーを備えた「ストリートアーティスト」ではなく、素朴なほどひたむきに「ライター」であり、その都市や世界との対峙には、路上の空気を肌で呼吸する官能性と、居場所をみずから切り拓く実存の感覚が混在している。その混在においてTEELは、価値観のずれから敵対したブラックロータスと一方では感性的に共振しつつ、他方でこのあと見るように、成り上がることを希求する大須賀アツシともまた通じるように思える。
2024.10.04(金)
文=大山エンリコイサム