重要なのは、もともと大須賀自身が文章を生業とするライターということだ。このとき大須賀のなかで、「ライター」であることと「かく」ことは、それぞれ二重の意味を帯びている。ストリートのライターであること。文章のライターであること。ストリートに名前をかくこと。紙面にテキストをかくこと。ストリートの割り切りを内面化した大須賀は、この二重化した言葉の意味をひとつの当事者性のうちにかきこむ。彼が特殊な存在である理由はここにある。ストリートアートという領域と、小説という領域が、大須賀アツシの人格という空間のなかで交差するのである。
六 立体交差する文字列
ストリートアートという領域と、小説という領域が交差する。それは『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のスクリーンには映し出されない、『イッツ・ダ・ボム』にオリジナルの風景である。それは井上によって――すなわち第二部を執筆する大須賀によって――きちんと「表現」されている。本書のクライマックスのひとつ、ブラックロータスによってボムされた小田急線のラッピングカーを、TEELが目撃する場面である。その車体では、アニメのキャラクターたちが絵筆を手に、ポップな字体のアルファベットをかいていて、その一部がブラックロータスのボムによってかき換えられている。公式コラボレーションの絵に擬態して身をひそめるそのストリートアートに、TEELが気づく。
恐らくは作品のタイトルなのだろう、と文字を拾って「あっ」と声が出る。出した後に息が止まる。B、L、A、C、K。続くのは当然、L。間違いない。O。急に足裏から電車が走る振動を感じる。T。胸まで響いてくるような、生っぽいリズムだ。U、S。
このシーンは、目の前を通過する小田急線が、文字をひとつずつ視野のうちに運んでは過ぎさり、それを動体視力が追いかけるさまを、言葉でみごとに活写している。TEELだけではない。私たち読者の瞼にも、ありありと映像が浮かぶ。それは、水平移動する車体に横書きされた文字列が、視野に現れては消える、小説内の映像のリズムと、紙面に縦書きされた「B、L、A、C、K」の文字列を追って、私たちの視線が垂直移動する、読書のリズムとが、滑らかにシンクロするからだ。ブラックロータスの擬態したボムにTEELが「あっ」と気づく瞬間と、読者が同様にそれに気づく瞬間の一致が、その共振を増幅する。
2024.10.04(金)
文=大山エンリコイサム