ご出身は沖縄で、高校卒業後に就職のため大阪に出てきた。母体になっていた会社は中華料理チェーンを運営しており、高校の先輩が何人か働いていたこともあって就職を決めたのだという。高校時代にラーメン屋でアルバイトしていたことも、入社のきっかけのひとつになったようだ。

 以来、昭和47年10月に創業したこの店で堅実に働いてきた。18歳で沖縄から大阪へ単身で移るとなると不安も多そうだが、高校生のころからアルバイト漬けで親とはすれ違いの生活だったため、ホームシックに悩まされるようなことはなかったようだ。ただし、ことばにはそれなりに苦労されたらしい。
 
「関西弁が、最初はなかなか。(生まれ故郷の沖縄には)方言があるんですけど、もともとは配属が沖縄の先輩と一緒だったんでなんとかなったんです。でも、そのあと転勤の話が出て、それで」

 実家は首里城の近く。6人きょうだいの末っ子で、他界されたご両親は、最後は造園関係の仕事をしていたそうだ。
 
 ところで、沖縄の人にはのんびりとしたイメージがある。という感じ方には多少なりとも偏見が混じっているかもしれないが、せわしい大阪に出てきて違和感はなかっただろうか。

 

「(のんびりとした空気は)ありますよ、いまでも。だから出てきたころはね、どうしてもついていくのが大変でした。でも、いまではもうこっちのほうが長いんで、馴染んでるんで、沖縄に3日もいたら退屈で仕方ないです(笑)」
 
 奥様とのふたり暮らし。人の紹介で49歳のときに結婚したそうなので、まだまだ新婚さんといえるかもしれない。いずれにしてもまだ若く、お店に関しても後継者問題に悩まされるようなことは当分ないだろう。

同期のふたりで切り盛り

「そうですね。まだそこまでは。あと15、6年ぐらいはまだ大丈夫と思うんだけど。でも人を育てるのも大変で、やっぱり。なかなか根気のある人がいないんですね、いま」
 
 最初に出てきてくださった方は、そんななかでは珍しい、根気のある若手だったということか。と思いきや……。

2024.09.17(火)
文=印南敦史