エイレングラフものの第一作「エイレングラフの弁護」は本国版〈エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン〉一九七八年二月号に掲載された。同誌への登場は初めてではなく、一九七七年四月号に「泥棒の不運な夜(別題:紳士協定)」(日本独自編纂短篇集『おかしなことを聞くね』所収。ハヤカワ・ミステリ文庫。一九九二年刊)が掲載されている。名無しの泥棒が災難に遭う話だが、同年には泥棒バーニー・ローデンバーものの長篇第一作『泥棒は選べない』(ハヤカワ・ミステリ文庫)も刊行されており主人公は同一人物にも見える。また、同年六月号には「危険な稼業」(日本独自編纂短篇集『バランスが肝心』所収。ハヤカワ・ミステリ文庫。一九九三年刊)が載っている。この二篇を見てダネイが、出来る若手にランドルフ・メイスンを書かせることを思いついた、とすると話は綺麗なのだが、ブロックの記憶によれば一九七六年にはもう依頼があって「エイレングラフの弁護」を書いていたらしい。一年余ほど寝かされていたということになるのだろうか。いきさつはよくわからない。

 このころのブロックは、一九七六年に『過去からの弔鐘』(二見文庫)を発表して私立探偵マット・スカダーものを書き始めていたが、シリーズはまだベストセラーとは言いがたい状態だった。ブロックが人気作家になるのは同シリーズの第五長篇『八百万の死にざま』(一九八二年。ハヤカワ・ミステリ文庫)がPWA最優秀長篇賞を獲り、ハル・アシュビー監督による映画化が実現した後のことである。当時のブロックは二十年余に及ぶ雌伏期の最終段階に入っていた。『怪盗タナーは眠らない』(一九六六年。創元推理文庫)に始まるタナー・シリーズや、ノン・シリーズ作品の『ダーティ・ラリー氏の華麗なる陰謀(別題:危険な文通)』(一九七一年。三笠書房)などが、一九六〇・七〇年代の長篇である。ダネイがブロックに目をつけたのも、いまだ代表作といえる長篇がなかったからではないだろうか。

2024.09.12(木)
文=杉江 松恋(書評家)