そんな病棟だからこそ、なるべく心地よい環境で過ごしていただきたい。朝になったら換気をして、春の気持ちいい風を部屋に取り込もう。

 次に見回りをするのは男性の四人部屋で、意識のない患者ばかりだ。意識がなければ、自分で自分の体を清潔に保つことはできない。患者の体やベッドの周囲をきれいにしておくことも大切な看護の仕事だ。それでも、人間が生活しているから、やはり少し臭うことはある。そもそも男性部屋と女性部屋では臭いが違う。生物学的な違いなのだろう。男性部屋は少し汗臭く、女性部屋はどことなく生臭い。人間の体臭は人によって違うのに、集まるとなんとなく男性と女性で分けられる気がするから不思議だ。

 ドアから入って左手前は大岡悟さんのベッドだ。五十歳の男性で、もともとは庭木職人だった。黒々とした角刈りと凜々しい眉毛が、目を閉じていても意志の強そうな印象を与える。頬のあたりにいくつもシミがあるのは、長年屋外の仕事に携わった証だろう。

 大岡さんは、重症低血糖症のあとに意識が戻らず、長期療養型病棟に転棟してきた。私はベッドの足側に立って呼吸の確認のために腹部を照らす。そのとき、喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んだ。とっさに足を一歩引いてしまう。そこに見えたのは、ベッドの柵を握っている小さな白い手。大岡さんの顔を照らさないように気を付けながら、手の持ち主にそっと光を当てる。ベッドサイドに、十歳くらいの女の子が立っていた。

 あどけないかわいらしい子で、黒いサラサラの髪を二つに結っている。長袖の白いTシャツに、淡いピンク色のスカート。足元は、靴もスリッパも履いておらず、靴下だけだ。柵をぎゅっと握りながら、大岡さんのほうに顔を向けている。色白のほっぺたが柔らかそうだ。

 私は、気持ちを落ち着けるために一つ大きく息を吐いた。夜中の病棟に子供がいるはずがない。夜勤の間は、最低でも一時間に一回は見回りをするけれど、さっきの見回りではどこにもいなかった。そしてよく見ると、うっすら透けている。何度視てもやっぱり慣れない。そこにいるのは、本物の女の子ではなく、大岡さんの「思い残し」なのだ。

2024.05.11(土)